ユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換』を読む #6
公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究posted with amazlet at 09.09.01
本日は第六章「公共性の政治的機能変化」について見ていくずらよ。この章の内容はもうタイトルのとおりです。前章で批判産業*1感全快で、あれやこれや市民的公共性の失墜を批判していたハーバーマスですが、では政治的な機能はどんな風に変わったの? というお話。これまでの繰り返しも結構含んでいるため、サクサクいきましょう*2。
第二〇節「民間文筆家たちのジャーナリズムからマス・メディアの公共サーヴィスへ 公共性の機能としての広告」では、かつては公共の意見を形成する媒介であったり、どの権力にも属さず批判的機関として機能していた「新聞」というメディア(ジャーナリズム)も、今や単に広告としての機能しかもってないぜ! ってなことが書かれております。世論なんかもさ、今や広告の手法をもって形成されちゃうわけ、みたいなね。あとは前章でも言ってたように、ジャーナリズムも市場の論理に飲み込まれちゃって……云々という感じで大した中身があるわけではございません。
第二一節「公開性の原理の機能変化」にいきます。公開性の原理については、第四章で出てきたカントの話を思い出してください。この節の内容もタイトルどおり「今はその原理も全然意味が変わっちゃった」という話です。で、どう変わったかっつーと、昔は議論の場所を公開にしてたら、色んな意見が出て、論争だの揉め事が起こってたけど、今は全然起こらない。なんでかっていうと、政治ももはや私的な利害関心の塊になっちゃってるわけ。そうすると議論によって白黒つけよーじゃねーか! っていうよりは、商売みたいな感じで「こっちはここを譲歩するから、そっちはあれを譲歩してよ」みたいな取引によって政治が動いちゃう。
これもリベラルな建前に従ってるように見えるけど、ちょっと違う。こんなの別に公開しててもしなくても一緒だからね。っていうか、もはやそういう政治の場を公開してても、政治はマス・メディアを使って世論を操作しちゃってるから、正直言って関係ないわけ*3。そうなるとさ、公開性の意味も全然変わったって言えるじゃん? だってさ、結局、公開性ってあらかじめ約束された同意を確認するぐらいの意味しかないんだもん。
はい、どんどん行きますね。第二二節は「造成された公共性と非公共的意見 住民の選挙行動」となってます。この節は、なんかヴェーバーの『職業としての政治』を想起させる部分がいくつかありますね。ですが、最初のほうの一文を引用しちゃうとこの節はまとまっちゃいます。「もはや選挙戦は、制度的に保障された公共性の枠内で、不断から養われている政見の論争から自然に起こるものではなくなったのである(P.280)」。議論とか対話から政治が立ち上がってくるわけじゃなくて、結局、もうすでに何かしら決まってて、選挙もなんか嘘っぽい儀式とマス・メディアの活躍と機能の場になってる! みたいな話です。
というわけで、あっという間に第六章のラスト、第二三節「自由主義的法治国家から福祉国家への変形過程における政治的公共性」にきてしまいました。これまでハーバーマスは散々、自由主義であるとか、公共性の失墜などについて批判をおこなってきたわけですが、そうは言ってもこの失墜が完全に悪! というわけではない、というなんだか複雑な、歯の奥になにかがひっかかった評価が垣間見える部分です。たしかに、私的な利害関心や市場の論理が社会を覆うことで、何かが変わってしまった。でも、今は特権階級や絶対的な主権者によって、不条理な支配がおこなわれてるわけじゃない。それどころか、そこそこみんな上手くやってるじゃん! たしかに不平等なところは多々あるけれども、国家が再び強くなることで、富の再分配は強力行われてて、豊かさもあるじゃないか、と。
結局、問題は、なんだかシステマティックに政治が進みすぎてるのと、システムが不透明すぎてその政策がホントに自分たちの社会のためになってるかどうかわかんねーよ! ってことみたいです。
以上が第六章のマトメになります。次で最後です。やったー!