ユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換』を読む #4
公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究posted with amazlet at 09.09.01
本日は第四章「市民的公共性 イデーとイデオロギー」について見てまいりましょう。この章は社会史の分析よりかは、思想史の分析に比重が置かれておりますので、これまでよりも若干堅苦しい感じがしますが(読んでいても読んだことのない哲学者の名前がいっぱい出てきて、ちょっとキツい……)お付き合いくださいませ。とりあえず、章のはじまりである第十二節に「この章ではこういう話をしますよ」というアナウンスがありますのでまるごと引用しておきます。
市民的公共性の機能の自己理解は、「公論」という論題の中で結晶した。もとより、これが一八世紀後期に明確な意義をうるまでにたどったその前史は長く、今までのところその大筋が見通せるにすぎない。それでもわれわれはこの前史を市民的公共性の理念への導入として扱い(第一二節)、この理念がカントの法理論において古典的に表明された(第一三節)後で、ヘーゲルとマルクスによってその問題性が追及され(第一四節)、そして一九世紀中頃の自由主義の政治理論においてイデーとイデオロギーの相反並存を告白せざるをえなくなる経緯(第一六節*1)を述べることにする。(P.128)
それでは第一二節に入りますが、この節は「公論(public opinion――opinion publique――〓ffentliche Meinung) 論点の前史」というタイトルがついています。ここで分析の俎上にあがっているのは、タイトルにある「公論」という言葉の意味の(英独仏における)変遷です。ハーバーマスは今日「opinion」という言葉が、単に個人的な「意見」を示す言葉ではなく、社会的な性格を持っていることを確認しています。「しかたがってその社会的性格を示唆するすべての修飾語は、冗語として割愛できるほどである(P.129)」。しかし、もちろんそのような意味が簡単に成立したわけではないのですね。イギリスでは、ホッブズ → ロックという流れよって、重要な意味の分離が生まれ……みたいな話が書かれておりますが、このあたりの細かいことは第一二節を実際にお読みください。大雑把に言っておくと、もともとは単に私的な領域にあった意見から、私的な性格が離れていき、公的な性格が与えられていったか、という話です。イギリスの場合、ホッブズがconscience(良心・意識)とopinionという二つの言葉を同一視したことによって、個々の意見が良心によって媒介された、とか書いてあります。
しかし、ここで名前をあげられているホッブズは市民的公共性の側に立つ人ではありません。『リヴァイアサン』(読んでませんが)にあるように人間の自然状態は「ワスが! ワスが!」の万人の万人による闘争であるため、君主の絶対的権力によって統制されなければ、国なんかまとまらんだろう……JK、とか言っていた人ですから。で、それに対抗するのがカントだった! というお話が第一三節「政治と道徳の媒介原理としての公開性」ではなされます。
「いや、やっぱり絶対的な権力とか暴力による支配じゃなくてさ、道徳によって政治がおこなわれなくちゃ、世界全体はよくならんわけですよ。ほら、道徳に則したことってみんなにとって良いことでしょ?」ということをカントは言います。そこで道徳と政治をつなげる媒介としてカントは「公開性」を不可欠のものとしてみなすのですね。特定の人たちだけが参加できるクローズドな政治じゃなくて、みんなで参加できるオープンな政治が現実になれば、政治と道徳はつながるのだ、と。これと同時にカントは啓蒙もまた重要視しましたが、以上を考えればそのカントの主張は当然のものとして捉えられましょう。いくら政治がオープンになってても、そこに参加する市民がとんでもないアホなら、社会が良いほうに向かわないですもんね。このとき、カントは啓蒙もまた公開性を基盤としておこなわなければならない、と言っています。というのも、その方が効率が良いし、閉じてるとどこかに偏りが生まれてしまう、と彼は考えたからです。自由な公開性のなかで啓蒙がおこわなれることで、啓蒙もまたブラッシュアップされるだろう、とカントは考えたのでした。
ただし「啓蒙によって市民みんなが賢くなって、世界のために良いことをしようという道徳を身に着ければ、政治もよくなる!」というようなカントの考えは、いかにもユートピア的なものだと言えましょう。第一三節の終わりでは、このカントに代表される市民的公共性の理念がヘーゲルによってイデオロギーとして弾劾されることに触れられています。そして、第一四節「公共性の弁証法によせて ――ヘーゲルとマルクス――』に入っていくわけです。カントが夢想した市民的公共性は、理性とほぼ同義でしたが、ヘーゲルはそのようには見なかったのです。「公衆として集合した私人たちの公論は、その統一と真理性を実現するための基盤を、もはや保有していない。それはいまや、多数者の主観的私念という水準へ転落したのである(P.161)」。
私的な利害関心が、公共へと入り込んでいく状況を、ハーバーマスは「市民社会の解体現象」と呼んでいます(P.162)。ヘーゲルが危惧していたのは、この解体が進むにつれて、国家に対する私意や、暴力が生まれてしまうことでした。これでは時代を逆行する結果となっていまいます。この逆行を防ぐために、ヘーゲルが提案したのは公安政策や職能団体(同業組合)によって、マジョリティによる私的な利害関心の暴走を抑止することでした。こういった抑止機能をもつ集団(≒政治権力)によって、市民的公共性にフィードバックが与えられる。この関係性を弁証法的な関係と呼ぶことができましょう。これに対して、ハーバーマスは「このように制限された私生活圏に所属する公共性の概念も、もはや自由主義的なものではありえなくなる(同)」と言っています。
市民的な公共性に対して政治権力をあてることを提案したヘーゲルの考えは、マルクスにとっても「無力な復古的な試みにすぎない(P.165)」と思われるものでした。ここからマルクスの歴史観を考えれば、私的な利害関心が一旦市民的公共性に入り込んでしまったならば、その一切を排除することはできないし、元通りに戻すこともできない、という付可逆性を認められましょう。市民的公共性はそのようなものとして、成熟してしまったのです。しかし、このようにヘーゲルを批判したマルクスの市民的公共性批判の内容といえば、ほとんどヘーゲルと変わらないように思えます。「マルクスは公論を虚偽意識として弾劾する。それによると、公論はブルジョア的階級利害の仮面としての真の性格を、自分自身の眼から秘匿しているのである(P.166)」。市民的な公共性は理念として平等を謳いながら、実はブルジョア階級の優位に物事が決められており、不平等である。そして、その不平等はブルショアに認識されておらず、彼らは平等だと信じきっていることをマルクスは批判していました。
しかし、選挙法が改革されることなどによって、既成の不平等なブルジョワ階級による市民的公共性以外からも、政治的な活動の場に参入することができるようになったことをマルクスは見ていました。これによって、ますます公共の場には私的な利害関心に入り込んでいきます。それどころか「私人相互の間の交渉の一般的規則は、こうして公共の関心事となった(P.169)」のです。この変化をハーバーマスはこの著作のタイトルでもある「公共性の構造転換」と呼んでいるのです。マルクスの主張によれば、このような転換(公共の場に、私的な利害関心が満ちる)によって、社会のなかに内在的な弁証法を見出したのですね。そしてマルクスは、この反対モデルとして、社会主義的帰結を見出したのです。そこでの社会の意思決定は「もはや私有財産にもとづくのではなく、そもそももはや私生活圏内にではなく、公共圏そのものの中に根拠をもつものでなければならない(P.171)」。このモデルが共産主義の骨子となっているのは言うまでもないでしょう(でも、これってカントの夢想から進歩してなくねーか?)。
でも、現実はマルクスが言ったようには全然ならなかったのですね。前述したように選挙権が拡大されたりなんかして、公共性は拡大されはしたのですが、やはり金持ち優位なヒエラルキーは解消されず、公衆が公共性によって支配されるという目標は成し遂げられなかったのです。このような現実に対して自由主義者たちはどのような弁護をおこなったのか、といいうのが第一五節「自由主義理論にあらわれた公共性の両価的把握 ――ジョン・ステュアート・ミルとアレクシス・ド・トックヴィル――」の内容になります。
しかし、これらの弁護は、市民的公共性が平等と繋がる、といった話ではなく、むしろ、保守的なものだったのです。ここでは「政治的機能をもつ公共性は、もはや権力解消の理念をかかげず、むしろ権力分配という目的に奉仕すべきである」というのがミルやトックヴィルの主張ですが、ハーバーマスはこのような主張を「こうして公論は、単なる暴力制御にすぎなくなる(P.179)」と評価しております。それどころか、選挙権が拡大したことによって、バカが増えて、論議する公衆の自己決定の質が低下したんで、もうそろそろ選挙権をバラ撒くのやめましょうよ、的なことまで言うのです。ミルやトックヴィルが公然と「制限されたエリーティズム」を主張しているところは大変に面白いです(これらは近年の宮台真司の発言を思い起こさせますね)。こんな風にして市民的公共性の基本構図は崩壊しちゃうのでした。
以上が第四章のマトメになります。だんだんやる気がなくなってきたぜ!
*1:誤訳? 第四章は第一五節までしかないが、これは第一六節まで語られる、という意味でしょうか。英訳版を確認したらこのような括弧書きはありませんでした。