sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

矢作俊彦 『スズキさんの休息と遍歴 または、かくも誇らかなるドーシーボーの騎行』

Twitterで以前、id:kokoroshaさんが「ストーリーは平凡だけれども、描写がとんでもない小説はない?」といった趣旨のつぶやかれていましたが、矢作俊彦の『スズキさんの休息と遍歴』がそうしたタイプの小説にあたるのかもしれません。全共闘世代の「闘争からの20年後」を描いた本作は、その多岐に渡るキャリアの初期に漫画家としても活動していた矢作の才能を活かすように描写の代わりとなるイラストがいくつも挿入されたり、また映画や小説のワンシーンから引用された比喩表現など、小説の枠組みを逸脱した作品となっています。タイトルからも推し量れるとおり、ストーリーは『ドン・キホーテ』から本歌取りされたもので作中でも『ドン・キホーテ』はマクガフィン的に取り扱われ、いわば、コラージュ性が高い小説です。しかしそれは「前衛」を目指したものではないのでしょう。むしろ、そうした手法や前衛を嘲笑するためにあえてその手法が採用されているように思われるのですが、人を食ったようなその態度はまったく馬鹿にできないどころか「この人、やっぱり上手すぎる」と唸らざるを得ない洗練を感じさせるのでした。どこかから借りてきたものだけで出来上がっている小説、と言っても過言ではない。出会う人物どころか、自分の子どもに対しても左翼の口調で語りかける主人公の元・左翼闘士のセリフ回しにしても、あまりにも典型的な左翼口調であって既製品感が漂う。そして、その既製品感はこの作品が刊行された1990年という《時代》と呼応しているように思われました(自分がその時代をリアルタイムで味わっていたわけではありませんけれど)。革命の夢とドン・キホーテの妄想との対応についてもあからさまですが、主人公が現在アロンソ・キハーダであり、かつての自分がドン・キホーテだったことに対する気づきが、かつてドン・キホーテだった自分の姿をまじまじと見せつけられるようにして気づく小説のラストからは、ノスタルジーと同時にユーモラスな恐怖のようなものを感じてしまいます。