ロード・ダンセイニ『影の谷物語』
神保町に『ブック・ダイバー』という古書店があって、ここはラテンアメリカ文学や幻想文学などの品揃えが割りに良く、値段も手ごろなので機会があると必ず足を運ぶようにしている。その店でなんとなく買ってみた本が自分的に大当たりだったりするのだが、ロード・ダンセイニの『影の谷物語』もそんな経緯があって読んだ一冊である。
これは心が豊かになるような素晴らしい小説で、作者はアイルランドの男爵というのがなんだかすごい(ペンネームも「ダンセイニ卿」という称号から来ている。ちなみに18代目)。小説家の顔のほかにも、詩人、劇作家、随筆家、翻訳者、さらには軍人、探検家、アイルランドのチェス・チャンピオンという肩書きを持つのだから、プロフィールだけでも大変なことになっている。身長180センチを超えるイケメンであるところもポイントが高い。なにかこういった事実を知るにつれ「本当に豊かな文学とは豊かな生まれの人物によってでしか書き得ないのではないか」などと考えてしまった。
物語は16世紀のスペインを舞台にした架空の歴史小説で、一種の騎士道小説ともいえる話である。これだけで「まるで『ドン・キホーテ』ではないか」と思う人もいるだろうけれど、それはその通り。物語は「ロドリゲスという名の青年が、父の遺言に従って、スペインにはすでに存在しない戦争に参加するための旅に出る」という始まり方をする。この「存在しない戦争に参加するための旅」という荒唐無稽さが『ドン・キホーテ』と重なる。
『ドン・キホーテ』なので、従者も登場する。従者の名前はモラーノと言う中年の太った男で、これもそのままサンチョ・パンサと重ねられる。このキャラがとても良い。とことん無知だが、主人に対する忠誠と人柄の良さの描かれ方が素晴らしく、誰もが好きになってしまいそうな人物である。このあたりは、ほとんど萌え系小説のように読めてしまって、翻訳されたフォークナー作品に登場する黒人奴隷(語尾が『ズラ』とか『ですだ』とかになっているような)が好きな方には堪らないものがあるだろう。
筆者(つまりダンセイニ)の語りが物語のながれに介入したりと、色々とセルバンテスを彷彿とさせるところがあるのだが、一点大きく『ドン・キホーテ』とこの作品が違っている点をあげるとするならば、物語がかなり真っ当な進み方をするという点であろう。魔法使いや決闘や戦争といった冒険譚が『影の谷物語』のなかでは、ちゃんと登場するのである。逆に「それはないだろう」というところから冒険譚が湧き出てくるので、あたかも「逆『ドン・キホーテ』」であるかのようでもある。この過剰さが良かった。文章も素晴らしい(いつかパクる)。