sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

綿矢りさ 『夢を与える』

夢を与える
夢を与える
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綿矢 りさ
河出書房新社
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綿矢りさの凶悪さとは、笑顔で近づきながらみぞおちあたりをナイフで刺されるような恐ろしさであって以前『蹴りたい背中』を読んだときも、もはや振り返りたくもない思春期の自意識過剰っぷりについて掘り返されてしまい「ライフはゼロよっ!」というクリシェでもってその痛さをお伝えしたくなった。その凶悪さは『夢を与える』において、とことんチープな「美少女主人公の成り上がりから転落へ」というストーリーで発揮される。狙っているのか、天然なのかよくわからない表現の稚拙さは、その痛さのクスグリなのか、地の文と主人公の意識の流れがリニアに接続され、視点がぼやける最中、なんとか読み続けられるギリギリのバランス感でもって破綻が予告され、緩やかにページのめくる手を駆動させる。この筆致を作家が意識をもって統御しているのだとしたら、間違いなく綿矢りさは天才だと思うし、無意識なら大天才、と言ったところ。現代的な心象を文学的に描くものではなく、とてもありふれた心象を風俗を描くようにして綴る作家として、優れた作品を世に送り出しているなあ……と思われました。


正直なところ、大きな物語のなかに盛り込まれたひとつひとつのシーケンスはやや散漫であまり効果的な感じには思われません。これって結局なんだったの? これによって何か物語に変化がおこったの? とひとつひとつ首をかしげたいほどです(それゆえ、物語がすごくダルい感じになっている)。端的に言ってしまえば、「与えられた期待」と「本当に自分がやりたいこと」が見事にコンフリクトを起こした結果の暴走、そして破綻、というお話でしかない。「なんだよ、結局自分探し小説かよ」とため息をつきたくなる感じではあるのですが、ここまでひどく、チープな破綻は、そのチープさによって現代的に輝く。今や芸能人でなくとも、誰もがソーシャルな力によって私刑を受ける可能性がある世の中です。その不気味さや嫌らしさを本作は予言しているのでは、とさえ思われます。


しかし、本当に嫌な部分は、破綻まで進んでいくところよりも、実は栄光を手に入れるまでの道のりではないか、とも思うのですね。とくに嫌なのは、主人公が家庭のトラブルによって「もう自分にはいくところがない(誰からも必要されていないのではないか)」という不安(これも安いっ!)に陥る箇所で差し伸べられる、クラスメートの素朴な男子からの手です。このシーケンスは絶望のなかで振り返られ、さらに主人公の絶望を煽る、という伏線になりますが、そこで描かれる淡い好意は『耳すま』的な小っ恥ずかしさであり、脳内で月島雫がタランテラを踊りそうな具合でした。身悶えするような自然讃歌や人工物への批判的な態度もまた少しずつライフを削っていく。もう最高です。「あえて」とか、そういうキャンプな態度でなく、綿矢りさの作品を今後も読みたいと思いました。ライフを削られるために読む小説があっても良いじゃない……。

先週の土曜日に東京モーターショーにいっていたのだった


目当ては未来の車椅子アタッチメント、WHILL。あまりに未来っぽいデザインに惚れ込んでしまい、これに幾ばくかのお金を寄付していたのだった。そしたら東京モーターショーの招待券をいただけたのだよね。WHILLの展示は単に実機が置いてあるだけで、それに乗れるわけでも、キャンギャルがいるわけでもない。どこに展示があるかも探さないとわからないくらい質素なものだったけれど、やっぱり実機は素敵な未来感を醸し出していて良かったですよ。



日本絵画のひみつ @神戸市立博物館

神戸にいく用事があったため、そのついでに神戸市立博物館に立ち寄りました。この博物館には内部に「日本において製作された異国趣味美術品」を蒐集した池長孟という大人物のコレクションを収蔵している南蛮美術館が存在する施設です。先日の「南蛮美術の光と影 泰西王侯騎馬図屏風の謎 @サントリー美術館」で展示されていた作品のなかにはこの美術館から貸し出されたものが多くあります。この日はサントリー美術館で出会ったエキゾチックな作品群と再会し、改めてその不思議な魅力を再確認できました。


この日の特別展は「日本絵画のひみつ」。伺ったのがちょうど初日、とまるで自分を待ってくれていたかのようなめぐりあわせですが、世間的にこの手のジャンルが人気なわけではないせいか会場はガラガラ。おかげでサントリー美術館ではじっくり観ることのできなかった南蛮屏風の細部も確認できて良かったです。日本画に使用された顔料や、画家が模写を先達の作品を模写することで伝わっていく手法やそこからわかる影響関係がこの展覧会における「ひみつ」とされているようです。《模写》というテーマでは狩野探幽が原本であるという「南蛮人交易図屏風」の様々な粉本(模写したもの)が展示されていて、とても興味深かったです。原本の存在は現在確認されていないのですが、右から左へと物語のような流れを感じさせるユニークな図柄は多くの画家によって模写された理由を納得させるものです。


今回の新しい収穫としては、秋田蘭画との出会いがひとつ挙げられます。秋田蘭画は18世紀後半の秋田藩藩主、佐竹曙山とその家臣であった小田野直武によって隆盛した西洋絵画の影響を多大に受けた写実的な日本画の流派だそうです。お殿様でありながら平賀源内を招いたり、自身もセンス爆発な絵を描いていた佐竹諸山は「秋田のルドルフ2世」とでも言うべき人物だったかもしれません。くっきりとしたコントラストで描かれた鳥や花は、今で言えばほとんどインテリア絵画的なセンスなのですが、それが掛け軸になると異様なクールネスを放って見えます。また小田野直武が杉田玄白らによる有名な『解体新書』の扉を書いている、という事実も興味深かったです。秋田蘭画とはまた別に、ほとんど同時代の洋風画家、石川大浪はオランダ語の本の図版を多く模写しているます。これもカッコ良かったです。

最近聴いてるブラジル音楽

Fina Estampa
Fina Estampa
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Caetano Veloso Caetano Veloso
Polygram Records (1994-10-11)
売り上げランキング: 70935

いろいろ本業などがアレな感じであり、最近は週に一度のディスクユニオン新宿ラテン・ブラジル館通いもままならない感じであるのだが、そうはいってもタイミングを見計らって中古盤屋にCDを買いにいったりしているわけで。そこで気がついたのは、ブラジルモノのメジャーな名盤は新宿よりも、渋谷ジャズ&レア・グルーヴ館(どうよ、このネーミング)のほうが安い、という事実であって、もちろんものによるんでしょうけれど、カエターノ・ヴェローゾの2作目のアルバム『Alegria, Alegria』(新宿だと2500円ぐらいする!)が900円で買えてしまうのだから、笑いが止まらないですよ、ゲヘへ。ただ、ふと気がつくのは初期カエターノは実は個人的にいまいちピンとこずに、この時期のトロピカリアであったらジルベルト・ジルのほうが好きだったり、カエターノの曲を歌ってるムタンチスのほうが良いな、と思ってたりする。


結局、私が好きなカエターノって80年代末からアート・リンゼイをプロデュースに迎え、音はモダンなピカピカした音に、声は艶っぽくとにかくエロく、しかしまったく媚びずにひたすらカッコ良く、完全にエロジジイ感全開で活動している頃のアルバムなのですね。『Alegria, Alegria』と一緒に買った『Fina Estampa(邦題:粋な男)』もそうした路線上にいるアルバムで、自叙伝的、と言いましょうか、カエターノ御大が影響を受けた楽曲をカヴァーした内容となっている。これがまた艶やかでねえ……。今のカエターノは一旦ちょっと枯れて、枯れながらもオルタナに向かうところが驚異的なんですけれど、当時52歳で明らかに一番脂が乗っているオーラを醸し出しているのですよね。これはちょっとクラシカルな年の取り方だと思う。



まさに粋な男っ! って感じですね。このイキフンが好きならば以下の3作はマストバイ。このうち2枚は確実に新宿ラテン・ブラジル館に在庫があると思うので週末に新宿にダッシュだ!

Estrangeiro
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Caetano Veloso
Universal Import (2000-06-12)
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Circulado
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Caetano Veloso
Universal Brazil (2003-09-30)
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Livro
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Caetano Veloso
Nonesuch (1999-06-01)
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カフェ・ブラジル
カフェ・ブラジル
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エポカ・ヂ・オウロ ジョアン・ボスコ アデミルデ・フォンセカ マリーザ・モンチ パウリーニョ・ダ・ヴィオラ マルティーニョ・ダ・ヴィラ レイラ・ピニェイロ
ワーナーミュージック・ジャパン (2001-07-25)
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で、先日もご紹介しましたショーロのコンピレーション・アルバム『Cafe Brasil』(どうよ、このタイトル!)も素晴らしいコンピレーションでありまして、ショーロ畑のアーティスト以外にもブラジルの有名ミュージシャンが参加しているのでどの曲聴いても「だんじゃ!?(福島弁で『誰だ!?』の意)」と虚空に向かって問いたくなるんですよね。そのなかでも特にマルチーニョ・ダ・ヴィラという歌手の声に惹かれました。現在、1938年生まれ、現在73歳で「サンバの巨人」と呼ばれる大歌手だそうです。『Cafe Brasil』では非常に哀愁を漂わせた歌声を聴かせてくれるのですが、1974年の『Canta Canta, Minha Gente(邦題:サンバを歌おう)』ではものすごい良い塩梅の、底抜けに楽しい音楽が展開され、思わず顔がほころびます。この人、70年代にサンバ復興に火をつけたキー・パーソンなんだって。これを聴くとボッサとサンバの連続性が見えてきたりしてちょっと面白い。

Canta Canta Minha Gente
Canta Canta Minha Gente
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Martinho Da Vila
Bmg Int'l (2004-07-20)
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Music Typewriter
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Moreno + 2
Luaka Bop (2005-06-28)
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あと先日来日していたモレーノ・ヴェローゾ(カエターノの息子)のアルバムも聴いていました。来日ライヴは予定が合わず観られませんでしたが、カエターノの素晴らしい遺伝子がモレーノの声帯に宿っていることが実感できるアルバムです。顔はあんまり似てないんだけれども。ただの2世タレントではないですし、近年のカエターノの若返り戦略には確実に息子の影響があるんだなあ、と思いました。来年の頭にでるガル・コスタのアルバムでは、親子で共同プロデュースしているそうですから、お年玉の使い道はもう決まった、と言って良いでしょう。



Marisa Monte/O QUE VOCE QUER SABER DE VERDADE

O QUE VOCE QUER SABER DE VERDADE
MARISA MONTE
EMI BRAZIL(033) (XY4) (2011-10-31)
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ブラジルの音楽をいろいろと聴いているとこの国は本当に素晴らしい歌手が多い国だなぁ、と思わされます。『カフェ・ブラジル』というショーロのコンピレーション・アルバムを聴いていると「この歌手はなんていう人だろうな」と気になる楽曲ばかり。マリーザ・モンチの歌声に出会ったのもこのコンピが初めてでした。タイミングよく新譜が出てしまったと聞けば、もう買って聴くしかありません。多彩な音楽性が評価された歌手である、という評判を目にしてはいましたが、本作からもその評判を裏付ける印象を受けます。人種の坩堝感と言いましょうか、言ってしまえば雑多な音楽性が「MPB」というキーワードに統御されているところに、現代のブラジル音楽の素晴らしい醍醐味を感じるのですが、このアルバムはその模範ともなるような内容に思われました。例えば、本作に収録されているジョルジ・ベンのカヴァーをとっても原曲を見事にアップデートした仕事ですし、タンゴを取り上げているところもとても興味深い。ブラジルの音楽のなかにアルゼンチンの音楽が挿入されることで、隣り合わせの国のリズム感の違いが浮き上がってくるようです。


読売日本交響楽団 第509回定期演奏会 @サントリーホール 大ホール

指揮:シルヴァン・カンブルラン(読売日響常任指揮者)
ベルリオーズ/序曲〈リア王〉作品4
チャイコフスキー/幻想序曲〈ロミオとジュリエット
チャイコフスキー交響曲 第6番 ロ短調 作品74〈悲愴〉

今シーズン最後のサントリー定期へのカンブルラン登壇。チャイコフスキーの人気作品が取り上げられていたせいか、座席はいつもより埋まっているように見えました(もしかしたらカンブルラン&読響の好評が影響していたのかもしれませんが)。前プロのベルリオーズは第507回定期に引き続き。聴いたことがない作品でしたが、ブリリアントかつリッチな鳴りがいつも以上に素晴らしく楽曲を端正に仕上げている印象を受けました。続くチャイコフスキーの《ロミジュリ》も同様。基本的にカンブルランが選択するテンポは快速ですが、音楽はただ流れていくのではなく、煌めくような表現が随所に挿入されていく。これが毎回生で音楽を聴いている喜びを実感させてくれます。ホットな体を、クールな頭脳でバキバキに統御した、外はサクサク、中はとろ〜りの逆バージョンとも言える音楽の作りは、爆演タイプの指揮者では味わえない愉しさに満ちている。


ただ、メインの交響曲は個人的にあまり乗り切れませんでした。ロマンティックな表現に耽溺することのない清潔感のあるチャイコフスキーで、すごくリズムに切れ味を感じさせるものでした。けれどもいくつかオーケストラの演奏で細かく気になる点が冒頭からあったこと、と、これはあまりに流れすぎちゃっているのではないか、音楽が、といまいちフックがないまま演奏が終わってしまった、というのが正直なところ。これは単純に好みの問題でしょうけれど、前・中のほうがオーケストラが集中していたようにも思われました。そもそも曲があんまり好きじゃない、というもあるんですが……。楽曲が「常にオンな曲」というか、抜きどころがない、というか、全部塗りつぶしたみたいに濃い曲なので、その濃さをガッツリ強調しないと表現のコントラストが効いてこないですよね。やり過ぎで来てもらわないと、いまいちガッツリと来ない。

J. L. ボルヘス 『詩という仕事について』

訳者の鼓直があとがきに書いているとおり、日本におけるボルヘスへの関心は主に彼の短編小説にある。しかし、本当のところ、ボルヘスという作家が活躍した領域は長編小説を除いて評論から詩までと幅広い(そもそも彼が文学者としてのキャリアを歩み始めたのは、詩人としての成功だったはずだ)。本書はボルヘスが1967年〜1968年に渡っておこなったハーヴァードでの講義録であり、メインとなるテーマはタイトルにもあるとおり「詩」である。日本の詩業界だってマイナーなところであろうところに、海外の詩と言えば、翻訳をどう考えるか障壁があるゆえ、どうやったって扱いにくい。日本語にした時点で、もともとの言語が持つ音律から離れ、構造もまるで違ったものになる。翻訳された詩は、なにものであろうか。実のところ、本書で取り扱われているテーマにはこうした詩と翻訳の関係も含まれている。

仮に原文がどれで、翻訳がどれであるかを知らなければ、その二つを公平に判断できるだろうと思われます。しかし不幸なことに、それはわれわれには不可能です。したがって、翻訳者の仕事は常に劣るものと見なされる。

原文こそがホンモノである、という意識が日本語に翻訳された海外の詩にまつわる問題をひきおこしている、どちらが原文かを知らないでいるのなら公平な判断ができるはずなのに。もしかしたら翻訳のほうが美しく感じられることもあるだろうし、翻訳にしてしまったら美しさが台無しになってしまう可能性もある(そこでは優れた海外の詩の翻訳である、という事実がその台無しになった価値を担保してくれる)。こうした問題は、何も日本語の翻訳に限定されるわけではない。スペイン語から英語への翻訳、あるいは古英語を現代英語に直すときに常々発生してしまう。こうした文学的評価に対する諸問題を前にして、ボルヘスはこんな予言をおこなった。

人びとが美を巡って出来事や状況をほとんど気にしない時代が来るはずです。人びとは美そのものに関心を抱く。恐らく、詩人らの名前もしくは生涯にさえ心を遣わなくなるはずです。

歴史が終焉し、ボルヘスが語るインド人たちのように《誰がこの詩を書いたのか》が忘れ去られてしまえば、不可能とされた《公平な判断》がおこなえるだろう。ボルヘスの予言とはこんなポストモダ〜ン今夜が満載なのだが、この時間感の喪失、歴史の消失は彼が書き残した短編小説の世界とも接続され、魅力的に読める。はっきり言ってボルヘス自身がこうした予言を本当に信じているとは思えず、言ってみるテスト、でしかないのだが、このカマしかたこそが彼の小説の魅力なのだ、とも思う。


しかしながら、現在の我々は不幸なことに(?)ポストモダ〜ンでもなく、未だ翻訳なんてホンモノではない、原文がホンモノだ、というオーラに縛られているわけである。言語の問題はとても根深い。本書が興味深いのは、ボルヘスの講演を聴いていたのがアメリカの英語を母語とした人びとであり、講演者も英語で話していた、ということだ。そこにはスペイン語はもちろん、ラテン語、ドイツ語、フランス語、そして古英語などが登場する。翻訳論がでてくるのもそうした事情からなのだろう。言語が問題とされるのは状況として当然であったのだ。


この翻訳では、ボルヘスが引用している詩の原文と、その日本語訳が併置される。これは「なるほど、詩の翻訳とはこういう風におこなわれるのか」という関心を呼び起こすものだったし、母語以外の言葉を学ぶ(とくに英語以外の言語も学習しようとしている)人が読むと面白いのではないか、と思う。母語から離れることは、幻想的な文学的コスモポリタニズムの世界に近づくことなのかも、と私個人は深く感じ入ってしまった。