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2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

J. L. ボルヘス 『詩という仕事について』

訳者の鼓直があとがきに書いているとおり、日本におけるボルヘスへの関心は主に彼の短編小説にある。しかし、本当のところ、ボルヘスという作家が活躍した領域は長編小説を除いて評論から詩までと幅広い(そもそも彼が文学者としてのキャリアを歩み始めたのは、詩人としての成功だったはずだ)。本書はボルヘスが1967年〜1968年に渡っておこなったハーヴァードでの講義録であり、メインとなるテーマはタイトルにもあるとおり「詩」である。日本の詩業界だってマイナーなところであろうところに、海外の詩と言えば、翻訳をどう考えるか障壁があるゆえ、どうやったって扱いにくい。日本語にした時点で、もともとの言語が持つ音律から離れ、構造もまるで違ったものになる。翻訳された詩は、なにものであろうか。実のところ、本書で取り扱われているテーマにはこうした詩と翻訳の関係も含まれている。

仮に原文がどれで、翻訳がどれであるかを知らなければ、その二つを公平に判断できるだろうと思われます。しかし不幸なことに、それはわれわれには不可能です。したがって、翻訳者の仕事は常に劣るものと見なされる。

原文こそがホンモノである、という意識が日本語に翻訳された海外の詩にまつわる問題をひきおこしている、どちらが原文かを知らないでいるのなら公平な判断ができるはずなのに。もしかしたら翻訳のほうが美しく感じられることもあるだろうし、翻訳にしてしまったら美しさが台無しになってしまう可能性もある(そこでは優れた海外の詩の翻訳である、という事実がその台無しになった価値を担保してくれる)。こうした問題は、何も日本語の翻訳に限定されるわけではない。スペイン語から英語への翻訳、あるいは古英語を現代英語に直すときに常々発生してしまう。こうした文学的評価に対する諸問題を前にして、ボルヘスはこんな予言をおこなった。

人びとが美を巡って出来事や状況をほとんど気にしない時代が来るはずです。人びとは美そのものに関心を抱く。恐らく、詩人らの名前もしくは生涯にさえ心を遣わなくなるはずです。

歴史が終焉し、ボルヘスが語るインド人たちのように《誰がこの詩を書いたのか》が忘れ去られてしまえば、不可能とされた《公平な判断》がおこなえるだろう。ボルヘスの予言とはこんなポストモダ〜ン今夜が満載なのだが、この時間感の喪失、歴史の消失は彼が書き残した短編小説の世界とも接続され、魅力的に読める。はっきり言ってボルヘス自身がこうした予言を本当に信じているとは思えず、言ってみるテスト、でしかないのだが、このカマしかたこそが彼の小説の魅力なのだ、とも思う。


しかしながら、現在の我々は不幸なことに(?)ポストモダ〜ンでもなく、未だ翻訳なんてホンモノではない、原文がホンモノだ、というオーラに縛られているわけである。言語の問題はとても根深い。本書が興味深いのは、ボルヘスの講演を聴いていたのがアメリカの英語を母語とした人びとであり、講演者も英語で話していた、ということだ。そこにはスペイン語はもちろん、ラテン語、ドイツ語、フランス語、そして古英語などが登場する。翻訳論がでてくるのもそうした事情からなのだろう。言語が問題とされるのは状況として当然であったのだ。


この翻訳では、ボルヘスが引用している詩の原文と、その日本語訳が併置される。これは「なるほど、詩の翻訳とはこういう風におこなわれるのか」という関心を呼び起こすものだったし、母語以外の言葉を学ぶ(とくに英語以外の言語も学習しようとしている)人が読むと面白いのではないか、と思う。母語から離れることは、幻想的な文学的コスモポリタニズムの世界に近づくことなのかも、と私個人は深く感じ入ってしまった。