小澤征爾×村上春樹 『小澤征爾さんと、音楽について話をする』
タイトルをみかけて、著者の部分を確認すると「小澤征爾×村上春樹」とある。このふたりの組み合わせに驚いた人も多いだろう。かたや日本を代表する世界的指揮者であり、かたや日本を代表する作家、である。豪華過ぎるほど豪華な組み合わせと言っても何らおかしくはないのだが、ただ個人的には「小澤征爾の熱心なファンってどれぐらいいるんだろうな」というのが率直な印象だった。とくに熱心なクラシック・ファンにおいては、アンチ小澤派もいると思うし、なかには「なぜ、あんなに評価されているかわからない。あんなものに騙されている日本の聴衆は本当にレベルが低い」という強烈な意見を持つ人もいると思う(その評価はもてはやされ方が気に食わない、という音楽的な内容とはまるで関係がないことに所以することもある)。周りを見回しても「小澤ファン」を自称する人は見当たらないし、一体誰が評価しているのか、とも思ってしまう。私の家にも小澤指揮のCDは2枚しかない。
メシアン:トゥーランガリラ交響曲posted with amazlet at 11.12.16
ラヴェル:クープランの墓posted with amazlet at 11.12.16
どちらも昔よく聴いたアルバムだ。メシアンのほうは今ではもっと録音・演奏ともに優れたものがあるけれど、水戸室内管との《クープランの墓》は同曲のベストと録音といっても良いブリリアントな演奏(オーボエの宮本文昭の音色が珠玉)。あと、長野オリンピックのときに出た世界の国家のアルバム、あれを友人に借りて聴いたっけ……ということを思い出す。
ひとりのクラシック愛好家として、小澤征爾の立ち位置について考えるたらこんなことが思い浮かんだ。もしもベートーヴェンやブラームスを小澤で聴きたいか、と問われたら。彼が振るオーケストラがたとえサイトウ・キネンであっても「別に……」と答える気がする。「チケット、タダなんだけど」と言われたら喜んで飛びついちゃうけれども、録音で聴くなら特別な出会いでも無いかぎり食指が動かないだろう。オーソドックスな名曲にはそれだけの名演があるわけで、人生の限られた時間のなかではなかなか小澤征爾の演奏が入り込んでくる余地はない。入り込むには衝撃的なほど際立った個性が必要だ。それはある意味、玄人好みの指揮者、ということでもあるかもしれず、小澤征爾の指揮の素晴らしさについて他人が納得がいくように説明できる人は、豊かな音楽的耳を持ち、言葉も豊かな人だと考えられる。
日本で最も世界的に活躍する指揮者って、そんな人なんですよ(テレビで小澤がウィーン・フィルの音楽監督になった〜、とか、ニューイヤー・コンサートを振った〜、とか、癌になった〜、とか、復活した〜、とか、また休んでる〜、とかのニュースを見て『へえ〜、この人はさぞかし素晴らしい人なんだろうな〜』と思っている方々に向けて伝えるならば)。ただし、現金なもので、癌による休養以降小澤征爾に対するクラシック・ファンの目線とは温かいものになっていると思う。まず「小澤なんてさ」と声に出して言う人はすごく少なくなったと感じるし。それほど好きでもなかった人たちまでなんとなく心配になって、早く良くなって欲しいね、と願っているような状況である。
もちろん、病人に対して「もっと悪くなれ!」と願う人はなかなか見つからない。でも、なにか小澤征爾だからこんなに「早く良くなって欲しいね」と思われるのかもしれないな、とも感じるのだから不思議な人だ。
学生時代に、東京文化会館でウィーン・フィルのオペラ公演の楽器搬入をするアルバイトをしたことがある。そのとき、私は小澤征爾が楽屋から出てきたのがちょっとだけ見れたのだった。黒い半袖のTシャツを着て、髪の毛はもじゃもじゃで「うわ〜、世界のオザワだよ〜」という風に一瞬感動したが、その瞬間の私は総額ン億円ぐらいはするであろうウィーン・フィルのメンバーのヴァイオリンが入った箱を運んでいるところであり、それどころではなかったのだ。それでも、ふらふらっ、と現れてスタッフとなにか話している世界のオザワの姿は強烈に記憶に焼き付いていて、思い返したらそうした不思議な印象と、小澤征爾という人間の印象はどこかでリンクしているのかもしれないな、と思う。
本の話を書こうと思ったのに思いがけず長くなってしまった。本を読んでいて、まず惹きつけられるのは、小澤が語る、バーンスタインやカラヤンといった20世紀後半を代表する指揮者や、さまざまな音楽家との交流についてだ。これは純粋に「逸話集」として貴重な記録となっていると思う。そこにはグレン・グールドや、カルロス・クライバーの話もある。もう亡くなってしまった人ばかりかもしれないけれど、素晴らしい音楽家たちとの思い出がいっぱいに詰まっている。あんな人とも……こんな人とも……。考えてみれば、あの時代にクラシック音楽の世界で活躍していたら、そうした交流が生まれるのは当たり前だ。でも、小澤の他にはいない。そうした意味で、なにか小澤に対する有り難みが増したような気もする。
聴き手である村上春樹による言葉は、時折多弁すぎる箇所がある。とくにマーラーの音楽について語っている部分での、マーラーの音楽の雑多さや多層性に関する言及は、渡辺裕の『マーラーと世紀末ウィーン』を語りなおしているかのようで冗長に感じてしまった。
しかし、『アンダーグラウンド』でみせた優れた聴き手、優れた媒介者としての振る舞い方は本書でも充分に発揮されている、と言えるだろう。小澤征爾のあまりに音楽的な言葉を、音楽的な言葉ではない言葉へと置き換える手腕が素晴らしい。音楽は、言語とは違った《言語》であって、本来翻訳が不可能なものである。もしも音楽を言葉で伝えるようとするならば、それは抽象的な表現にならざるをえない。そして、その抽象的な表現は音楽をやっているものでなければ肉体的な感覚として理解できないもの、とも言える。もっと情熱的な音、もっと柔らかい音、もっとブリリアントな音を……! という要求に対して、本当に応えられるのはその楽器を演奏している演奏家だけであって、非音楽的な聴き手は「情熱的な音とはこういう音だ」と指摘するような批評によって、音楽と言葉をマッピングしなければ理解ができない。ここで村上春樹がおこなっているのは、まさしく非音楽的な聴き手のための地図を作ることだ。村上春樹自身は非音楽的な人間であるにも関わらず、それが可能となっているのは暗喩の力、イメージの豊かさなのだろう。
高校時代から10年近くアマチュアのオーケストラで演奏活動をしていた身として、村上春樹の筆致で翻訳されたオーケストラの内部の話は、そうしたオーケストラ活動での肉体的な感覚を生々しく思い出させるものだった。そのハイライトとなるのは2011年の夏におこなわれた「小澤征爾スイス国際音楽アカデミー」のルポタージュ的文章だろう。これは音楽が作り上げられていくプロセスを捉えた感動的な文章だった。ずっと苦労していたもの、できなかったこと、乗り越えられなかった壁が、練習の過程でいきなりできあがってしまう。音楽がいきなり何倍もの豊かさで響き始める、その瞬間の奇跡にも思える様子が劇的に描かれている。そのリアリティを私は知っている(とクソアマチュアのくせに、勝手に思っている)。また音楽をやりたい、誰かと一緒に楽器を演奏したい、という気持ちに引火してしまう。あくまで個人的な感傷と印象なのかもしれない。でも、こうした気持ちになったことで、音楽をやっていて良かったな、とも思うのだった。