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2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

アドルノ『楽興の時』全解説(3) ツェルリーナへのオマージュ

 *1一九五二/五三年に発表された「ツェルリーナへのオマージュ」は、アドルノによるモーツァルトの《ドン・ジョヴァンニ》論。出典のデータをみると「フランクフルト市立劇場プログラム」とあり、予想ですが、おそらくこの劇場で《ドン・ジョヴァンニ》を上演した際のプログラムに寄稿したものなのでしょう。そういった性格で書かれたせいか、文章は非常に短く、翻訳されたものはわずか三ページしかありません。ひとりごとをつぶやくような文体が『ミニマ・モラリア』に集約されたアドルノの短いエッセイを彷彿とさせ、大変意味が掴み取りにくいのですが≪ドン・ジョヴァンニ≫のストーリーを把握しているのであれば「はぁ……? 何言ってんの?」と受け流せるような内容。正直言って、スベっているとしか言いようがありませんが≪ドン・ジョヴァンニ≫のストーリーをしらない人にとってはなんだか有難そうに読めてしまうのかも。


 タイトルにあるツェルリーナとは、≪ドン・ジョヴァンニ≫第一幕の登場人物です。彼女はイモっぽいけど可憐な田舎娘で、今宵、恋人のイモ男、マゼットと結婚式をあげます! と騒いでたところに、ヨーロッパを漫遊し一八〇〇人の女と寝た男、ドン・ジョヴァンニ*2がやってくる。で、ツェルリーナはイモ女なので、簡単にドン・ジョヴァンニに誘惑されてしまうんですね。「えー、単なる田舎娘のオラが騎士様に口説かれるなんて……。強引だけどなんか素敵……」みたいな感じ。ドン・ジョヴァンニは「一人でも『今まで俺が寝た女リスト』に載ってる女が増えれば良い」って言う最高で最低な人なので、早速コイツもいただうちゃうぜ! って言う感じでギンギンなのですが、昔捨ててきた女、ドンナ・エルヴィーラが邪魔に入って上手くいかない。ツェルリーナはマゼットのところに戻ります。


 しかし、マゼットのほうではフィアンセの自分を置いて、ほいほい得体の知れない男についていくツェルリーナにブチ切れ(当たり前)。「いまさら、なんなんだよ!」とツンツンしてしまうのですが、ツェルリーナは涙を流しながら「反省してるわ……、ホントは私はアンタだけのモノよ……」とか言って、なんとかご機嫌を取ろうとする。この後、二人がいるところにドン・ジョヴァンニが再登場し「幸福な二人のために、私がパーティーを開いてあげましょう(そのドサクサに紛れてヤっちまおう作戦)」とか言います。そのパーティーの最中も、ツェルリーナは恋人の様子を伺いながら、ドン・ジョヴァンニといちゃついたりしてる。で、結局また無理矢理ヤられそうになるところを、ドンナ・エルヴィーラに助けてもらいます。


 「ツェルリーナへのオマージュ」で触れられているのは以上の部分です。ここでのツェルリーナの振舞いをアドルノはこんな風に言っています。

彼女はもはや羊飼いの娘ではないが、まだ女性市民(シトワイエンヌ)ではない。両者の中間の歴史的瞬間に彼女は属しており、封建社会の圧制にそこなわれることもなく市民社会の野蛮からも守られている人間性が、ほんのつかのま、彼女においてかがやき出るのである。(中略)なんの悪気もなしに、自分を打ってくれと恋人にうながしながら不実の償いをする娘、そして百姓の無骨さを洗練された都雅へと変容させてしまう娘――彼女は、都会と農村との差別が止揚されるユートピア的な状態を、はやばやと先取しているのである。

 ……はぁ? って感じですが、補足を入れながら追っておきます。まず、ここで彼が言う「封建社会の圧制」とは伝統的な制度などに縛られた恋愛関係のことでしょう。そして「市民社会の野蛮」とはお金や生活のことを目的に結婚するという合理的でしたたかな恋愛関係のことを指します*3。≪ドン・ジョヴァンニ≫におけるツェルリーナの振舞いは、このどちらにも分類できない「止揚されるユートピア的な状態」なのです。彼女には、野蛮なしたたかさはない。同時に、制度(マゼット)に縛られる事なく、ドン・ジョヴァンニに惹かれてしまったりもする。おそらくポイントは「悪気もなしに」っていうとこだと思うのですが。この素朴さと自由をアドルノは「かがやいてる!」と言っているわけです。


 正直、これは批判産業臭(あるいはダメな左翼臭)がプンプンして、ちょっといただけませんよね。ただ、さすがにアドルノなので(?)この文章には、もう一ひねりあって「しかし彼女のかがやきは誘惑者にも照りかえしているいるのではないか」と続きます。ここでの誘惑者とは、言うまでもなくドン・ジョヴァンニのことです。彼は騎士、つまり封建貴族なわけですから、本当ならば初夜権を持っているはず。っつーか、特権階級なんだから、女と寝たければ好きなだけ寝れるはずなのですね。


 しかし、ツェルリーナにおいて「封建社会の圧制」は崩れていましたから、もはや初夜権は失われている――だからこそ「彼は快楽の使者となる」のです。もう少し噛み砕くと「制度を利用して女と寝るなんか、自由じゃない。自由の行使って言うのは、自由に女を狩ることができてこそ本当に意味を持つんだ。ツェルリーナが逃げちゃっても、それが自由なんじゃん? だから燃えるんじゃん?」みたいな感じですね。一ひねりしても、あんまり上手くいってないです。

*1:十ヶ月以上間が空いてしまいましたが、しれっとして続きを書きます

*2:寝た女の名前を全部ノートに書いている、という設定が最高!

*3:うろ覚えですが『ミニマ・モラリア』のなかに、そういった恋愛関係について嘆いているエッセイが収録されていたはず。英語で無理矢理読んだので意味があってるかどうかは知りません!