最後の水爆戦争
今ではもう閉店してしまったが、かつて私が住んでいた鯖野という集落にも一軒だけ喫茶店というものが存在していて、それは猫の喫茶店と呼ばれている店だった。この店は、今日の下北沢や町田にあるような店内に猫がいるカッフェテリアというわけではなく、猫が経営している喫茶店という意味合いにおいて、真の意味で「猫の喫茶店」だった。青いペンキで塗られたトタン屋根のその建物の、開けるたびにギィギィとまるで地下に巣くう得体の知れない魑魅魍魎がわめきたてる様に鳴るドアをくぐると、猫によって経営されていたにも関わらず、まったく獣の匂いがしない店内のなかにさまざまな生き物がただ時間を潰すためだけにいるのが見れた。猫の喫茶店に訪れる客の多くは就職活動に失敗した疥癬病みの犬や、戦争で片足を失った九官鳥だったが、なかには人間の客もおり、店内のちょうど真ん中にあるテーブル席には、いつも集落の女――といっても、多くは老婆なのだが――が座り込んでいた。その女たちのなかに、きまって私の祖母もいた。
大抵、休耕期などに時間ができると祖母は猫の喫茶店にいた。そこを訪れれば私は必ず、猫が淹れてくれたカフェオレ――それは猫の店主の顔の大きさほどもあるカフェオレ・ボウルに入っていた――に砂糖をたくさん入れて飲むことができた。それを一口飲むと、グァテマラ産の酸味の強い豆と岩手県の高地で育てられた乳牛の濃厚なミルクが魔術的に溶け合い、私の敏感な舌蕾を刺激した。ミルクの脂肪分が生み出すしつこさをコーヒー豆の酸味が、ハリケーンによる突風がカリブ海に面したあばら家の屋根を吹き飛ばすような具合で拭い去り、まさに絶妙なブレンド、何度でも飲みたくなるようなカフェオレは、ほとんど麻薬だった。こどもの学習能力とは恐ろしく、また、単純なものである。だから、私は祖母の姿が家の中にいない、と気がつけばすぐに自転車に乗り、そして、猫の喫茶店に足を運んだ。
ギィギィと音を鳴らしながら、店内に入ると祖母が振り返り、私の姿を認めると一応体裁を整えるためなのか、猫の店主が猫なりの字で書いたメニューに目を通して「クメちゃん、カフェ・オレひとっつ、うぢの孫にくんにがい」とカウンターの奥で自慢のサイフォン――とは言っても、猫なのに火を怖がらないことが自慢のひとつだったのだろうが――に磨きをいれている店主の猫に声をかけた。そうだ、店主の猫はクメちゃんと呼ばれていた、それが本名なのか、それとも、祖母たちが勝手に名づけた名前なのかは定かではない。市役所が猫の名前などを戸籍で管理しているわけではないのだし、もしかしたら、なんらかの所以があってのあだ名かもしれなかった。たとえば、猫の店主の前の飼い主がクメール人だったから、クメちゃんなのだとか。しかしながら、なんであれ、クメちゃんのほうはと言えば、注文を受けるとそれを了承したと言わんばかりにニャーと鳴くだけであった。
続きは文芸同人誌『UMA-SHIKA』創刊号で!
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スキルズ・トゥ・ペイ・ザ・¥
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意外に日がない、ということに気がつき、原稿の締め切りと印刷所等をあわてて決めました。初同人誌なのでちゃんと出来上がるか、超不安!