sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

怨念と個人的テロリズム

 秋葉原で起こった通り魔事件が報道された際に、ここ何年かにあった通り魔事件について紹介されていた。それを見ていて「結局、こういう事件って偶発的に起こってしまって、起こってしまったらどうしようもないことなんだな」と思ってしまった。事件が起こってしまえば、防ぎようがない。いくら暴力描写があるマンガだのゲームだのを取り締まろうが、ナイフ持ち歩いている人を検挙しようが、無惨に殺人が行われてしまう可能性はゼロにはならない。
 「だから、起こらないように一層厳しくしていかなければならない」という理屈は真っ当なものに思える。これからまたより一層にそういった「影響を与えるもの」に対しての風当たりはつらいものとなるだろう。でも、そういった「草の根」的な規制なんかホントはあんまり効果がないんじゃないかな、と思う。規制の網の目は、どこかでかいぐぐられてしまうだろう。もっと根源的なリスクを削減していく、そういったマクロな手段が必要なんじゃなかろうか、とか思うのである。理想を言えば、「暴力描写があっても大丈夫な社会作り」とか「ナイフを持ってても大丈夫な社会作り」とか、そういうの。そうじゃなきゃ、棚橋みたいに刺されても死なないような屈強な肉体作りに励むしかないよ……。

 ふと思い出されたのは姜尚中宮台真司による対談本『挑発する知』におけるテロリズムに関する議論だった。この本のなかで宮台は、テロリズムの動機について「怨念」という言葉を用いて、こんな風に言い表している。

……怨念が拡散するほど、セキュリティの不安が高まります。他者性を力で抑圧することが先決となります。「ヌルイことをいっていたら怨念をもった奴らがまた何をやるかわからないじゃないか」となる。かくして、何か怪しいというだけで先制的に切りつける。どんどん怨念が溜まる。すると、締め付けられた人びとは、ますますテロの動機を高める。つまり自己強化的な循環(マッチポンプ)があります。(P.41)

 これは9.11以降のアメリカとイスラム諸国の関係について語られたことだけれども、同じことが今回の、というかこういった「誰でも良かった」型の通り魔事件について言えるような気がする。怨念が、何かのきっかけで暴発してしまった。その結果がこういった個人的なテロリズムとして表出してしまったように思われてならないのだ。
 例えば「オタクだのニートだのワーキングプアだの、なんだかよく分からない。ウチじゃとても怖くて働かせられないよ」というセキュリティの不安がある。本当は働きたい。真っ当な暮らしがしたい。しかし、そういった怪しまれる要素を持った人たちは、仕事さえもらうことができない(これは明らかに抑圧的な状況だと言える)。怨念が溜まる。その怨念が限界に達したとき、どこかで事件が起こる。するとまたセキュリティの不安は高まる……という悪循環。結局のところ、セキュリティの不安が新しい怨念を生産するため、まったく解決策になっていない、というパターン。
 「俺がこんなに苦しいのは社会のせいだ」と虐げられた人びと(とここでは便宜的に名づけておく)と思うのは当然なような気もする。「社会」とは、つまり「我々が生きている集団」である。「だれでも良かった」という言葉には、強くこの漠然としたマスへの負の感情を感じてしまう。もっとも恐ろしいのは「だれでも良かった」=「私でもあり得た」というところだけれども――しかし、これは「私には関係のないことだ」という言い逃れが許されないことも意味している。そういうアナタも私も虐げられた人びとに恨まれる社会の一員なのだから。
 「虐げられるのは、自分が頑張らないせいじゃないの?」とか言う人もいるだろうけれど、そういう成果主義自由主義っぽい考えがまかり通っているような社会の構造も、怨念という負のリソースの増加に影響を与えているような気もする――そういうの、ある程度正しいけど、やりすぎると怨念生んじゃうよね。このあたりは自称「勝ち組」の人が、再分配とかそういう高貴な優しさを(嫌々ながらも)身に付けて、なんとかやっていただきたく思う。そういう手段を上手くやりくりしないと、ホントどうしようもない。
 あと「死にたかったら、一人で樹海行って死ね。迷惑かけるな」って言う意見は、もしかしたら最低かもしれない。潔く、一人で、決然と死ぬ。こういう主体性すら奪われてしまうしんどい社会なのかもしれないのだし。「拳銃を向けられたから、ナイフを地面に置いて捕まってしまう」――このロマンもなんもない感じが、ねぇ……。
 なんかひどく散漫なエントリになってしまったけれど、以上が昨日からぼんやり考えていたこと。なんか、やんなきゃいけないんじゃねーのか、って思った。