sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

内在系/超越系、または信仰と論理について


 演奏会が終わって帰ってきて、半日ぐらいずっとYoutubeで昔のテレビ映像など観ている。なかでもかなり面白かったのがこの昔の『朝まで生テレビ』の編集版映像。この回は「宗教」がテーマになっていて、オウム真理教麻原彰晃とか栗本慎一郎(『今世紀最大の宗教はマルクス主義だ』とかつまんないことを言ってる)とかが出演していて、全部で5本の動画はなかなか見ごたえがある。抜粋されているのは主に「宗教はなぜ必要なのか」について語られている部分だろうか。
 冒頭にあげたのは4本目の動画で、ここでは池田晶子景山民夫(どちらも故人だ)のかなりエキサイティングな議論を観ることができる。全編に渡り、池田は「どうして神の存在が必要なのか」という疑問を周囲の宗教家・信者に向ける。ものすごく素朴な態度をもって。
 「自分の存在であるとか、宇宙の存在であるとか、そういった規定をしようとする。それは全て自分の頭のなかでおこなわれる。そしてそれらの規定しようとする問題は『根源的に規定が不可能』、解決不能な問題である。神はそういった根源的未規定性に対して、外部からあたかも『私の存在』といったもの規定してくれるような処方箋のようなものでしかない。
 しかし、『神』を規定するのも自分である。だから、神の存在を自分の外部へと設定し、それによって私/宇宙を規定することはできない。神は問題の根本的な解決を図る特効薬ではない。なぜなら神もまた自分の内部に存在するからだ。
 神は徹底して私の内部に規定される。そこでの神は絶対的なものでは決して無く、実はとても揺らぎやすいものだ。あくまで『外部で私を規定している存在』として私の内部へと神を置かなければならない。というか、現にそのようにおかれている。
 だとしたら、神は何も特別視される必要性はない。むしろ、神の存在はいらない。私がいればそれで良い。『私がなぜ存在するのか』。これは解決できない。しかし、それを考える私が存在している。それで良いのではないか?むしろ、どうしてそのようにできないのか?」
 池田の発言を主旨をまとめてみるとこんな感じになるだろう。このような態度は宮台真司的な語彙でいえば「内在系」という分類できる。根源的未規定性に対して、外部的なものからの規定を求めなくても済ませる。
 しかし一方で「幸福の科学」の熱烈な信者であった景山はそうではない。「私は神によって規定されている」――そう信じて疑わない(先ほどと同様な分類をするなら、これは『超越系』の態度だ)。だから「本当は私しか存在していない」という池田の発言をまったく理解できない。
 「私の存在について問い続ける。答えはでない。でも、問い続けることによってどこかで神へとたどりつくのだ」という風に景山は言う。これに対して池田は「どこまでいっても、それ(たどりついた神)は自分ではないでしょうか?」と答える。このときに池田の言葉を理解できなかった景山が「え?」と池田に問い返す表情がとても印象的だ。
 このやりとりを観ていて、強く感じたのは「信仰とは論理を超越したものなのだな」ということだった。極めて論理的に神の存在を切り崩していく池田の言葉は、私にはとても正しいもののように思われる。しかし、信仰を持つもの、景山に対してその論理的な試みは完全に無意味なものとなってしまう。景山には池田の言葉が理解できない。おそらくそれは哲学的/論理的な思考能力の問題ではないだろう――この論理の無化はまさしく、「信仰が論理を超越した行為である性質をもっていることの表れ」であるように思われるのだ。
 また、それは他者に対する根源的未規定性であるとも言えるかもしれない。池田と景山の議論が続いたとしても「なぜ、あなたは絶対的ではない存在である神を信仰するのか」という問いに対して「だって、神は絶対的なんだもん」という答えしか帰ってこないだろう。池田は他者である景山を規定することはできない。景山の世界では、すでに「神は存在していて、私はそれによって規定されている」という公式が既にできあがっている。まさにそれが理由となって「神は存在しない」という切り崩しは不可能なものとなる。