スティーヴン・J・グールド『人間の測りまちがい――差別の科学史』
人間の測りまちがい 上―差別の科学史 (1) (河出文庫 ク 8-1)posted with amazlet at 08.10.09
人間の測りまちがい 下―差別の科学史 (2) (河出文庫 ク 8-2)posted with amazlet at 08.10.09
2002年に没した、生物学者であり、科学史家、かつ優れた科学エッセイスト、スティーヴン・J・グールドの『人間の測りまちがい』を読み終える。タイトルと装丁からからものすごく難解な本なのかと思っていたのだが(最近の河出文庫は表紙に使われてる写真がやけにカッコ良いのだが、それがどうにも難しそうな本に見えてしまう)、内容はとても易しく読みやすく、そして面白い本だった。骨相学(19世紀に隆盛を誇り、今では似非科学として扱われている『頭蓋骨の形によって、人間の能力を測る』という学問*1)、知能テスト、そして遺伝子科学といった学問においてなされてきた「有色人種は白人よりも先天的に劣っている」という主張、その主張の根拠になったデータがいかに歪められて使用され、そしてデータの分析者の主観がその主張に入り込んだものだったのか、を検証/告発する本書はミステリ小説のようにスリリングだ。
いかに客観的に収集されたデータ(この本のなかで紹介されたデータには、そもそも信用ならないものも多いが)であっても、そのデータに対して意味を与えるのは、最終的にある個人によってなされる主観である。これは当たり前のことのように思えるのだが、この本を読んでいる間は妙に重要なことのように感じられた。例えば、アメリカでおこなわれたある知能テストで、非英語圏の国から移民してきた人々から得られた結果が、英語圏の国から移民してきた人々よりも著しく悪いものだった、というデータがある。これを「非英語圏の国の人々の知能は、英語圏の国の人々よりも劣っていることの証明である」と読むことは可能だ。しかし、同じデータを「そもそも英語圏の人々に有利なテストの結果だ」とすることも可能である。この読みの可能性、あるいはデータの多義性の指摘は哲学的/思想的な重みを持つ。また、その読み(そして主張)の影響力についても、この本の中で触れられているのだが、この部分は「いかに『科学者』という権威が社会的に影響力を持つものか」という資料としても読めてしまった――なんとなくだが、社会学を学ぶ人、または社会学に興味がある人にとって、この本はとても有効な良書なのではないか、とも思った。
以上のこととは別に私がこれを読みながら思い出した2つのことについても記しておく。ひとつは現在「自動販売機でコロッケが売っている国(通称、コロッケの国)」で研究に勤しんでおられるAdam Takahashiさん(id:la-danse)が日本を発つ直前におっしゃられた「占星術は、社会学と同じなんですよ」という言葉について。氏、曰く「占星術はある社会現象の原因を星の運行に求める。社会学はそれを社会に求める。現代的な価値観から言えば、社会学のほうが信用がおけるものだと思われるかもしれない。でも、実は両方とも現象とその原因を結びつけるのは主観によってなされたものなんだから、それらは同質なのだ*2」。この占星術と社会学の関係性は、骨相学と遺伝子科学の関係性に置き換えても良いように思われる。そして、どちらの関係性においても、現代では一般的に後者が「客観的で」、「信頼され得る」ものとして扱われている。しかし、なぜ後者は信用(信頼)されるのか。「現象」と「原因の推測(意味を与える行為)」の間には、深い断絶があり、現象に対する意味づけには跳躍があるにも関わらず、科学は信頼される。この信頼の基盤とはなんなのか?、とそんな風に思った。
もうひとつは、今年公開されたM・ナイト・シャマラン監督による映画『ハプニング』について。私はこの映画を「史上最高の『よく出来た問題作』」であり「宮台真司が今年最高の映画にあげそうな映画(実際に彼がそのような評価を与えているかどうかは確認していない)」だと思っているのだが、友人との談話やネット上にあげられた批評のなかで「ハプニングの原因が分からないのが嫌だ(ダメだ)」という意見に多く触れ、その度にすごく違和感を感じてきた。ネタバレになってしまうけれど、この映画では、作品中におこるハプニングの原因についてさまざまな推測(意味づけ)がおこなわれる。しかし、「本当の原因」は明かされず、最後まで謎めいたままで終わるのだ。よって、作品のなかで行われたさまざまな推測の真偽を観客には判定することができない(ように作られている)。この観客を置いていくような態度は、映画的な(物語的な)文法からは大きく外れた物語だ、とは思う。しかし、あまりにも「原因が分からないのが嫌だ」という人が多すぎるのではなか――私の感じた違和感とはそういったものである。「原因が分からないのが嫌だ」という言明は、なんらかのハプニング(現象)の裏には、必ず「これ!」といった原因があるという「科学的思考」に慣れすぎたものなのではないか、と私は思う。
誰しも、確固たる原因が解明できれば安心を得られる。しかし、そのまるで実体化されたかのような原因が、常に現象との間に距離を保ち続けることは意識されていない。むしろ、安心はその距離への意識を霞めてしまうものだろう。これらは、グールドが『人間の測りまちがい』のなかで主張してきたことでもある。知能の高さ/低さには、ごくわずかな生得的な素質とより多くの環境的な影響が複雑に入り組んだ状態で絡み合い、原因として言い得る状況を示している。にも関わらず、我々は知能テストという実体的なものを与えられた途端に、そのテストが提供する実態的な原因(テストは環境的な影響には左右されないようにできているので、この結果が悪かったら、アナタは先天的に知能が低いのですよ!)へと飛びついてしまう。グールドが警鐘を鳴らすのは、その疑いのない飛びつきであり、また『ハプニング』が与える「結局、なんだったのか?」という脱臼感は、逆説的に実体化された原因への信頼を炙り出したものだったのではないのか。