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2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

テオドール・W・アドルノ『三つのヘーゲル研究』

三つのヘーゲル研究
三つのヘーゲル研究
posted with amazlet on 07.03.29
テオドール・W. アドルノ Theodor W. Adorno 渡辺 祐邦
筑摩書房 (2006/03)
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 久々にアドルノの著作を読む。『三つのヘーゲル研究』は2つの講演を元にした文章と1つの未刊エッセイからなる1963年の作品。その後、1966年に刊行された『否定弁証法』ではヘーゲルをメタメタに批判しているアドルノだが、本書ではものすごくヘーゲルに対してのリスペクトを掲げている(鬼ツンデレ)。
 第一部「ヘーゲル哲学の視点」は1956年のヘーゲル死後125周年の記念講演を元にしているのだが、ここでのアドルノが異様に熱く、泣ける。当時の“ヘーゲル評価”というのは既に「評価がされきったもの」としてあり、実証主義マルクス主義などによって既に乗り越えられたものとしてあったそうである。それに対してアドルノは「ヌルいこと言ってるとブッ殺すぞ!」と(は言ってないのだが)いう勢いで怒りまくる。そしてアドルノは「お前らの読んでるヘーゲルは、全然ヘーゲルじゃない。おこがましくも『ヘーゲルにおける生きたものと死んだもの』を選り分けようとする態度は、ヘーゲルのゾンビを墓場から蘇らせるようなものである」という批判を投げかけるのだ。そういった意味で、第一部はアドルノが歌うヘーゲルへの鎮魂歌である。そこには(訳者のあどがきでも触れられているが)「今、ヘーゲルを読んでどうする?」という深刻な問いへ答える態度が貫かれている。ここがグッと泣ける。
 アドルノ自身が序文でも書いているように、本書は「ヘーゲルの入門書」ではない。これは個人的な問題だが私はヘーゲルとカーゲルとネーゲルとケーゲルとゲーデルの区別も曖昧な「ヘーゲル童貞」であったから、本書でのアドルノの指摘がなにを指し示しているものか分かるところは少なかった。しかし、とても魅力的な書物であると感じた。ここで描かれたヘーゲルの姿からは、アドルノヘーゲルの「正統的後継者」であることが示されている(アドルノが書いているから当たり前なのかもしれないが)し、現象学存在論を先取りするヘーゲルの鮮やかさに興味が湧く。また「ヘーゲルの難解さに対する批難」をアドルノは退けるのだけれども、この部分はヘーゲルを擁護すると同時に、自分の著述スタイルへのエクスキューズとして成立しているようにも思う。

われわれはヘーゲルを読む場合、自分も一緒に精神的運動のカーヴを描き、いわば思弁の耳で、彼の思想が楽譜であるかのように聴きながら、一緒にそれを演奏するという風に、読まねばならない。

 第三部「『暗い人』――またはヘーゲルをどう読むか」はヘーゲルの必然的な難解さに我々がどのように立ち向かえばよいのかを、端的に示したものである。アドルノ曰く、ヘーゲルを読むという労働は、労働をさらに強いるものである(ヘーゲルを読もうとするものは、ヘーゲルとともに考えなければならない)。そこには労働と交換され、所有されることとなる「理解」は存在しない。ここでなされた、ある種の「明瞭さ」に対する批判はむしろ現代まで実行力を持っている。明瞭な文章を読むとき、我々はその労働と交換に「理解」という精神財を手に入れることができる。しかし、その理解は単なる「思考の模造品」であり、むしろ、思考を停止させてしまうのではないか、と私は思う(そして、そのようなものが多すぎるのだ)。