sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

音楽と言葉

 最近DENONの廉価盤シリーズに岩城宏之が振った日本の作曲家のCDが入った。そのなかには武満徹の《テクスチュアズ》という作品が収録されている。それを聴いていたらまた武満徹の音楽を聴き直したくなり、ここ何日かずっと武満が他の作曲家と対談した文章などを読みながら聴き返した。

 作品も面白いけれど、言うこともとても面白い人だな、と改めて思う。「マーラーは少し頭おかしいですよね」などと言っているのだが、武満も充分「おかしい」、というか神秘的な思考回路を持っている。例えば、武満とユン・イサンの対談ではこのような会話がなされている。

武満:僕は中国育ちなんです。はじめ昔の大連にいて、それから僅かでしたが、北京に居りました。
ユン:言葉はもう忘れたでしょう?
武満:さあ、どうなんでしょう。だいぶ前になりますけど、中国に何人かで行ったことがあるんです。それで中国の人に言葉を教わったんですが(中略)誰がしゃべっても発音が通じない。三週間ほどして、やっと僕の発音はいくらか通じるようになったと言っていました。ですから、やはり何か残ってるんですかね。

 武満は最初から「さあ、どうなんでしょう」と言葉を濁し、最期まで「残っているか/いないか」判然としないまま会話を終わらせている。それはとても曖昧で抽象的な言葉の連なりのように私には感じ、それから彼のそういう考え方の「曖昧さ」と音楽の抽象性とか詩情性とかが関係しているようにも思った。「タイトルと作品は詩的な関係性を持たなくてはならない」と言ったのはルネ・マグリットだが、武満作品ほどにタイトルが作品と詩的に/抽象的に結びついた例はなかなかない。

武満徹:鳥は星型の庭に降りる
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 《鳥は星型の庭に降りる》は、鳥が星型の庭に降りている情景を描写する音楽ではない。引用した会話で武満が曖昧なまま会話を終わらしてしまうように、タイトルと作品とは「関係しているかどうか」すら曖昧なまま、しかしやはり関係し、意味しあっているような状態が生まれている。そのように戦略的なタイトル付けを行ったかどうかは定かではないが、タイトル自体の選び方も単純に「センス良いなぁ」と思ってしまうのだが。

 武満の音楽を聴くたびに私は「音楽」と「言葉」について考える。ユン・イサンとの対談ではそれと関係するものもあり面白い。

武満:先生が言おうとしているメッセージ、音楽を通して語ろうとしているメッセージというものは、言葉では言えないものなんでしょうか。
ユン:そうです。言葉以外の――音によってある世界を動かすということですね。
武満:例えば最近の若い作曲家たち――コーネリアス・カーデューとかジェフスキー、あるいは日本の高橋悠治なんかが、音楽によって、社会や政治状況の悪さに講義の声を出していますね。あるいは現代音楽の一部があまりに知的になって民衆から離れてしまっている状況への反省から、非常に平易な、トーナルな音楽をつくるという傾向が増しています。そういうものについてはいかがでしょうか。
 僕も中には非常にいいものがあるとは思います。だけど大部分が、それは言葉で言った方がもっと簡単だよ、というような音楽じゃないかという気がするんですね。

 音楽で何かを伝えようとすること、それに対して「言葉で言った方がもっと簡単だよ」とさらりと言ってしまう感じがやはり彼の思考回路に驚かされる点である(だって、それを言ってしまったら結構元も子もないじゃないか)が、とても大切な問題提起のような気がする。何故言葉ではなく音楽を手段として取らなくてはいけないのか(言葉の方がストレートに伝わってしまうのに)、メッセージを含んだ音楽を作ろうとするものならば考えなくてはいけない問題だし、どのように音楽が言葉を乗りこえて「言葉にはできないメッセージを伝えるのか」という問題も存在する。

 そのように考えると、武満の「伝え方」とは、音楽と言葉を共存させた最も上手い一例なのかもしれない。