sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

ケージさえも真っ当な音楽に

 オーネット・コールマン・ダブル・カルテットを聴く。左にオーネット・コールマンのカルテット、右にエリック・ドルフィーのカルテットを配置して、冒頭から怒涛の即興演奏が始め、それが37分に渡って続く……というフリー・ジャズの「名盤」に数えられる一枚だが、聴いてみるとやはりすごい。この録音の際にあらかじめ「作曲」が行われていてたのはソロを取る演奏者の順番とごく僅かなアンサンブル部分だけ。これはら伝統的な作曲観はおろか音楽観から外れたものだ。が、そのようにして作られた音楽は「でたらめ」にしか聴こえない。マジで。

 20世紀のアカデミックな音楽でこの「でたらめ感」に匹敵するものはあるかな、と思い色々探してみたのだがこのダブル・カルテットに勝るものは1つも無かった。逆に『フリー・ジャズ』は、ブーレーズシュトックハウゼンクセナキスといった人たちの(理論に基づいて書かれているのにも関らず『でたらめ』に聴こえてしまう、と言われている)作品がいかに秩序だっているかを映し出す鏡になってしまうように思う。「偶然性」を用いたケージさえも、もうちょっと真っ当な音楽を作っていた気がする。「トランス状態でピアノを弾きまくり、それを弟子に書き起こさせた」というジャチント・シェルシ晩年のピアノ・ソナタはちょっと勝負できるかもしれない(聴いたことが無いので想像だけど)。

 オーネット・コールマン高松宮殿下記念世界文化賞受賞はダテじゃないのである。

 ただ「音楽として面白く聴けるか」は全く別問題。音楽だけを聴いて、その全体を「面白い!」と思って何らかの言葉が紡げる人はかなりすごい気がする。『フリー・ジャズ』からどのような面白いことが言えるかコンテストとかすれば良い。音楽の良し/悪しという判断に「その音楽に(作曲理論のような)秩序が存在するか/しないか」は、あまり関係が無い話だ、とは思うがこれでは「語り」のきっかけとなるものがあまりに存在しないような気がする。「ドルフィーの地を這うようなバスクラが……」、「ドン・チェリーのトランペットが……」と部分を取り出して何かを語ることは容易だと思うけれど。ミメーシスするしかないのかもしれない。

 とりあえず、そういう「語りの困難さ」と「自由の困難さ」はすごく伝わる。