武満徹『武満徹著作集(1)』
新潮社から刊行されている武満徹の著作集の第1巻を読了。一冊のヴォリュームと内容がとても多い本なので、読み終えるにはずいぶん時間がかかってしまったが、とても面白かった。武満の音楽が強く、深く言葉と関係しあっている、というか音楽と言葉が同一化されていることを意識させられる、そういうタイプの本である。
音楽と言葉、それは音と文字という二つの異なったメディアに属する別々のものに思われるかもしれない。しかし、この作曲家はもっと始源的な部分、音楽が記譜される前の、言葉が文字になる前の音声的な部分を見つめているようにも感じる。
音楽が記譜され、紙の上に保存される。言葉が文字になり、紙の上に保存される。この紙のなかへの保存によって、両者は「音」を失い、音楽と言葉は別々の存在となった。そして、音を失った両者は音楽家あるいは小説家によって作品として構築されるための素材へと変化した。武満はその歩みを逆さまに辿ろうとする。ロマン派のようにも読める「音楽と感情のつながり」や、「音を構築するという観念を捨てたい」という言葉は、そのような「プリミティヴな音」への回帰を思わせる。
第1巻には『音、沈黙と測りあえるほどに』と『樹の鏡、草原の鏡』の2つの著作を収録しており、前者では友人や好きな芸術家/音楽家/詩人に対する論評、あるいは前述したような音と言葉に対する武満の考えが綴られている。後者も同じスタイルの文章が収められているのだが、そのなかでも『Mirror』というインドネシアを訪れたときの旅行記が興味深い。
フランスの作曲家たちとともにインドネシアを訪れた武満はそこでガムランやケチャを聴いている。フランスの作曲家たちにも武満にもこれは新鮮な体験だったようで、武満は自分の感じた感動とフランス人たちの喜びようをこの文章で綴っている。
ただ、ガムランの「新しさ」に大喜びし、一生懸命それを楽譜に起こそうとするフランス人を見つめる武満の視線はかなり批判的である。逆に武満はフランス人たちのようにガムランを取り入れようとする態度を取らず、インドネシアの音楽と自分の音楽との違いを意識した。この他者との出会い方がやはり武満の独特な感性なのだろうな、と思わされた。
(なお、この本と、これに続く著作集の第2巻はid:kakanekoさんのご好意によって手に入れることができました。その節は本当にありがとうございました)