sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

音-風景

 「サウンドスケープ・デザイン・プロジェクト」を提唱するカナダの作曲家、R.マリー・シェーファーの大著。平凡社ライブラリに収められたため、論文のアイディアになるかな、と思いつつ読む。500ページ以上あるけれども、翻訳が良いのか、それとも原文も良いのか、リズミカルな文章で音楽的にスイスイと読めた。


 彼の造語「サウンドスケープ」とは存在する全ての音を《音楽》と捉えるジョン・ケージ的な発想が根底にしたもの。日本語訳では「音風景」とか「音環境」とかいう言葉があてられている。書名は『世界の調律』だけれども、別に世界中のコンサート・ホールにおいてあるピアノの調律を調べたものでも、様々なオーケストラのチューニング時に出される基準音(オーボエのA)が何ヘルツか調べたものでもない。ずっとサウンドスケープの話が続く。


 本の後半は、現代人が生活する環境におけるサウンドスケープは劣悪だ、という主張から、音響工学を無視した建築への批判(「現代の建築家は耳のきこえない人たちのための設計をしている。彼らの耳にはベーコンがつまっている。」)がされていて、その環境をどう変えていくか、というお話。「有線で色んな曲が流れすぎていて分裂的だ!」とか言っていて「うーん、なんだか気難しいだな…」と思ってしまうし、唐突に「宇宙の音楽は…」と始まったりしてニューエージ臭さが漂っている。


 けれども、前半はものすごく面白く、示唆に富んだ内容。ギリシャ時代から現代にいたるまでの文学作品における「音に関する記述」からサウンドスケープ史を構築している。特にすごいのは第4章「町から都市へ」で、ここでは「生活環境における音の変化(近代化)と人間の精神構造の変化(時間)」が語られている。シェーファーマクルーハンのつながりが上手く掴めなかったのだけれど、ここで繋がった。真木悠介の『時間の比較社会学』を思い起こさせる内容。


 シェーファーの音楽的態度が、西洋の伝統的なものとは異なった脱エクリチュール的なものであるのも興味深い。彼はサウンドスケープを「ハイファイ(環境騒音レベルが低く個々の音がはっきり聞き取れるサウンドスケープ)」と「ローファイ(個々の音響信号は超過密の音の中に埋もれたサウンドスケープ)」に分類するのだけれど、言ってみれば音楽を楽譜に書き起こすという作業は「記録する」という意味だけでなく、音楽から究極的にノイズを取り除いた「ハイファイ化」と言えるだろう。その不自然さに彼は疑問を投げかけるわけだ(『完全な沈黙などありえないというのに!』と)。…ってやっぱりニューエージ臭いな。


 まぁ、人間工学的な視点からみる音楽というのも面白いです。