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2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

イェイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス主義の伝統』を読む(原書で) #4

Giordano Bruno and the Hermetic Tradition (Routledge Classics)
Frances Yates
Routledge
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時代はようやくルネサンスに移ります。お話は1460年ごろ、マケドニアの僧侶によってフィレンツェのコジモ・デ・メディチのもとへとギリシャ語のヘルメス文書の写本が持ち込まれるところから始まります。コジモは、各地に使いを派遣してヘルメスに関するものを集めるよう命じていたのです。このとき彼のもとに届いたのがヘルメス文書全15巻のうちの14巻、最後1巻だけはなかったそうです。当時すでに彼のもとにはプラトンの写本が揃えられていたそうですが、それはまだギリシャ語からラテン語へと翻訳されていない状態でした。コジモは、ヘルメス文書を手に入れるとすぐにマルシリオ・フィチーノに翻訳を命じます。プラトンよりも優先してヘルメスだ、とコジモはフィチーノに手紙を送っているそうです。当時のフィレンツェビザンツ帝国からやってきた学者がもたらした文書などによって、ギリシャ哲学を研究する格好の場となっており、フィチーノもその恩恵にあずかりながらフィレンツェにおけるギリシャ哲学研究を牽引し、重要な翻訳者となっていた、というのも大変興味深いですね。


フィチーノによるヘルメス文書の翻訳は数ヶ月で終わったそうで、コジモは1464年に死んでしまうのには間に合ったようです。それからフィチーノプラトンの翻訳に取り組みはじめます。しかし、どうしてコジモはヘルメスをこんなにも重要視したのでしょうか。この理由についてイェイツは、初期キリスト教の教父たちと同様に、コジモもまたヘルメスがプラトンたちに先立つエジプトの賢者である、と信じていたからだ、と言っています。「ルネサンスは第一により古いもの、より遠いものに敬意を払った。古ければ古いほど、遠ければ遠いほど、神の真理を近づく、というように」というわけです。フィチーノもまたコジモに捧げたこの翻訳を古代エジプトの叡智を明らかにする素晴らしい発見である、と考えていました。また彼はこの翻訳の序文に「ヘルメスは最初の神学者である」というような序文を加えていました。この序文は神学者の系譜となっており、その系譜はプラトンまで途切れずに続いていきます。イェイツはこれをフィチーノが初期の教父たちを参照していた証拠とみなしています。また、彼はヘルメスはキリスト教の到来を予言していたことについても言及しており、ここでも教父たちとの認識の一致が見られます。


フィチーノがコジモにヘルメス文書の翻訳を献呈する際に一緒にその註解的な文書として『問題集(argumentum)』が付されていました。ここにはヘルメス文書におけるグノーシス的な儀式に関する彼の解釈があるのですが、ここがとても面白い。彼の「神の光」の存在を文書から読み取っていました。これに出会うと人々は「昇天するような感覚に陥り、幻想の雲に包まれ、そして人の意識が神の意識へと変化する(月が太陽に変わるように)。この境地に陥れば、人はまるで神のなかへと存在するようにして、あらゆる秩序を予見できるだろう」とこの表現がとても面白い。フィチーノによるヘルメス文書の翻訳は、1471年に初出版されますが、大いに広まり、16世紀の終わりには16版まで版を重ねたんだとか(フィチーノの業績のなかでも最も売れた本だったそうです)。これによりルネサンス全体にヘルメスへの興味がわきおこった、とイェイツは言います。


このヘルメス・ブームはなにをもたらしたのか。中世では教会による魔術の禁止令がありました。そうした事柄は秘密裏におこなわれ、魔術師たちは非常に恐れられた存在だったのです。しかし、ルネサンス期には、魔術は黒魔術だとか邪悪なものと切り離されて作り変えられ、アンダーグラウンドからアッパーグラウンドに登場してくるのです。これにはビザンツ帝国から大量の文書が西側へと流入してくることが理由のひとつなのだ、イェイツは言います。フィチーノによるヘルメス・トリスメギストスの翻訳とその受容もその一例なのですね。エジプトの魔術は古来より最も強い暗黒の魔術とされていたそうですが、ルネサンスの魔術リヴァイヴァルはすっかりそれを明るい方向に持ってきてしまった……といったところで、第1章は終わりです。おつかれさまでした。