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2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

集英社「ラテンアメリカの文学」シリーズを読む#11 ドノソ『夜のみだらな鳥』

 2年目に入った「集英社ラテンアメリカの文学』を読む」シリーズ、11冊目はチリのホセ・ドノソによる『夜のみだらな鳥』です。こちらはこのシリーズでも最も人気の高い本のひとつで、古書での価格もかなりプレミアがついてしまっています。現在、アマゾンで手に入れられるモノは最安値でも一万円を越している……。やはりこれはシリーズ全巻セットで買ったほうが得なのかも。インターネットの古書店で出ていることもまだあるようですので気になる方はマメにチェックすることをオススメいたします。日本の古本屋で「ラテン 集英社 揃」とかで検索すると運がよければ出てきます。しかし『夜のみだらな鳥』はそうしたプレミアに見合うだけの超絶的にパワフルな小説でした。語りのなかに意識の流れが混入し、混濁と渾沌にまみれた迷宮的マジック・リアリズム四次元殺法が炸裂する怪作です。解説によればルイス・ブニュエルがこの作品の映画化を望んでいたそうですが、作品はむしろアレハンドロ・ホドロフスキーの映画世界と強くつながるように感じられました。


 修道院に勤めている跛で唖の小男《ムディート》が語るその生涯……という形式で開始される小説は、途中まで「なにも与えられずに生まれてきた男が強烈な自己実現欲で成り上がっていき、ついには憧れていた権力の座につくことで、世界に対する復讐を果たす」みたいな話のように思われます。《ムディート》こと、ウンベルト・ペニャローサは、ドン・ヘロニモという名門一族に生まれた男を街で偶然見かけたことから、彼に対しての憧憬を常に持ってしまっている。ウンベルト・ペニャローサは跛の醜男なのに対して、ドン・ヘロニモはマッチョな上にイケメンで金持ち。これは闇と光の対立、といっても良いでしょう。ウンベルト・ペニャローサにとってドン・ヘロニモは《世界の正常さ》の象徴であり、光です。一方で、ウンベルト・ペニャローサには何もない。この何も持たざる者である性格は、小説中では《顔がない》という風に表現されます。小説の序盤では、この《顔がない》状態であるがゆえに、ウンベルト・ペニャローサは《誰でもありうる》という風に扱われています。そこでは彼の視点が誰の目にも宿る。そして一種の千里眼的な視点で小説世界が描写され、そのめまぐるしい視点移動が迷宮感をさらに煽っていく。


 ウンベルト・ペニャローサの意識はどんどん闇のなかに沈潜していく一方、彼の視点はドン・ヘロニモの闇、あるいは卑しさといったものを暴いていくように思われます。それはウンベルト・ペニャローサとは正反対に、なにかを持って生まれてきた彼には、自分が正常であり、力を持つものである、という自意識がある。ゆえに彼は異常なほど《正常であること》にこだわりを持っている。だから、彼は美しい妻と結婚しなくてはならなかったし、その美しい妻の乳母であった醜い老婆、ペータ・ポンセは自分の目の前から消さなくてはならなかった。ドン・ヘロニモがウンベルト・ペニャローサを自分の秘書として雇っていたのも、自分の《正常さ》を《異常さ》と対比することによって際立たせるためだったのかもしれません。いわばここでもウンベルト・ペニャローサの異常さは正常なものに奪われてしまっている。光と闇の対立は、同時に共犯関係を築きます。だから、そうした関係は簡単に解消できなくないものとなります。縁を切ろうとしたペータ・ポンセは、ドン・ヘロニモとまとわりつき、それどころか彼の嫡子として生まれてきた子どもは、恐怖を呼び起こしさえする畸形児だった……!


 ここからが中盤の面白いところで、ドン・ヘロニモはその畸形の子ども《ボーイ》のために国中から畸形を集め、畸形のネバーランド的なものを作りあげようとしはじめます。そのネバーランドのなかでなら《ボーイ》は自分の畸形を恥じることがないだろう、という歪んだ愛情がドン・ヘロニモのなかに生まれるのですが、まず間違いなくその愛情は《ボーイ》にではなく、自分に向っている、と言えましょう。彼は自分の息子にさえ《正常さ》を求めるのですね。たとえそれが作られた温室的現実のなかであっても。メキシコの作家、カルロス・フエンテスはこの作品に「ボッス的」なものを認めているそうです。この形容は、ドン・ヘロニモが作ろうとしたこの畸形のネバーランドに集約されます。そしてこの箱庭は、外の世界(現実)に対するひとつの鏡としても機能する。終盤はほとんど何が本筋で、何が妄想なのかほとんどわからず、錯乱したイメージが暴れ回るのに圧倒されるばかりなのですが、イメージを自由に繋ぎ、想像力を喚起させるテクニックが素晴らしかったです。これはすごい!