クリント・イーストウッド監督作品『グラン・トリノ』
一年にイーストウッドの新作が二本も観れてしまうなんて、なんて幸福な年なんだ、2009年は……という感じで楽しみにしていた新作映画。熱心な映画ファン、というわけではないけれど、こうしてリアルタイムに「公開が待ち遠しい……!」という作品があることは幸福で、生きるって楽しいな、とマジで思う。観る前から「どうせ泣いちゃうのだろうな」と思っていたが、観終わった後にトイレに入って鏡を観たら、目が真っ赤。素晴らしい、というか感慨深すぎて「しばらく音楽とか本とかインプットしなくても良いや……」という感じで打ちのめされる。イーストウッド作品に触れる度、毎回どよんとした重い気持ちに打ちのめされるのだが、それとはまた別種の打ちのめされかただ。感想を書くのも憚られたが、帰宅後、カレーを作っているうちに書く気になったので書いておく。
イーストウッドの最新主演作、という時点でスクリーンのなかだけで起こったことのみを鑑賞するという行為は幾分難しい作品である。大好きな俳優だし、好きな作品もいくつかある監督がいつ遺作になってもおかしくない時期に撮った作品ということもあり、それは必然的に特殊な(ベンヤミンをかじった人間であればアウラと呼ぶような)雰囲気を映画は含んでしまう。私個人の話に限れば、昨年亡くした祖父の姿とイーストウッドが重なってしまって、イーストウッドがアップで映し出されるたびに「間違いない、俺のじいちゃんはイーストウッドだったんだ」とよくわからない気持ちに陥ってしまった(ちなみに私の祖父とイーストウッドは一歳違い)。「いつ遺作になってもおかしくない時期」の作品ということを考えれば、監督は「ひとつのケジメ」としてこれを製作したのではないだろうか、というのが容易に想像がつく。さながら生前葬のような映画で、本当にこれが俳優引退作だとしたら、次回の監督作品をこれまで以上に期待しまう。
人種問題であるとか社会的テーマは盛りだくさんな作品であるけれど、キリスト教的な物語がことに目に付く。新米神父(牧師?細部の記憶が曖昧だ)に懺悔をしつこく薦められ、最後には自分の罪を洗いざらい告白する、という回心の物語でもあり(告白の聞き手は、その神父に留まらない。ドア越しにイーストウッドが語る罪は、懺悔室でのシーンと重なって、とても鮮やかだ)、さらには受難を受け入れることによって罪を浄化する物語でもある。最後に十字架の形で倒れるイーストウッドの姿に、イエスを重ねてしまうのは、あまりに単純すぎるとしても、私は直感的にそのように受け取ってしまった。
とはいえ、この受難によって、グラン・トリノを受け渡される少年の下に、救いが届けられる。この悲劇によって、救済が行われる明快な構図は、これまでのイーストウッド作品にまるで観られなかったものではないだろうか。彼のフィルモグラフィーを網羅した上での見方ではないけれども、この推測がもし正解に近いものであるならば、この終幕はクリント・イーストウッドという映画監督を語る上でとても重要なものに思える。たとえそれが晩年の気まぐれのようなものだったとしても。
細かに挿入される(かなりブラックな)ユーモアや、やけにリアリティを感じる音楽(モン族出身のアメリカ人が集まっている地下室で、おそらく彼らの言葉でラップをやっているすごいヒップホップが流れたりする)、あるいは、スタッフ・ロールで流れる音楽でワンコーラスだけヴォーカルを取るイーストウッドの決して上手ではない歌声など、細かなところでも面白いところが多く、大変情報量が多い映画でもあったと思う。登場する車に与えられた意味深さも面白かった。