酔い(上)
雨がコンクリートを打つような音でハッとなり、スジコスミオは意識を取り戻す。雨だと思われたのはシャワーから出る水が風呂場の床に吐き出される音で、スジコスミオは自宅の風呂場の椅子に座り、自分がTシャツを着たままシャワーを浴びていることに気がついた。だがなぜか下半身には何も身につけていない――スジコの自由の状態になった下半身にある、異性と契りを交わすための器官は硬く、強く奮い立っていた。まず、スジコはその奮い立つ様子に驚いた。なぜなら彼の股間に備わった、今では肉の串のようになっているそのシロモノは、ここ一年半ほどのあいだずっと“眠った”ままの状態で、小用を足す以外の用途に使えない柔らかな肉の塊に過ぎなかったからだ。ある身体器官としては不全であるとしかいえないその状態に陥った原因をスジコは精神的な理由だ、と人に説明していたが、説明の聞き手からすれば明らかに酒の飲みすぎだった――スジコよりも一回り年下の友人は「ほら、酔っ払って階段から落ちて死んだ、あの作家もアル中で入院する前にインポになった、って言ってたよ」とお節介にも忠告したが、彼は酒を止めなかったし、むしろ、自分の右手で自分を慰めることができなかったために、酒に慰みを求め、一層酒の量を増やしていった。そのおかげで、彼は四十路を五年も前にして本格的に糖尿病を患うようになり、さらには勃起不全のほかに一時的な記憶喪失までもが合併症のリストに加わってしまう結果となった。自分が服を着たままシャワーを浴びている、という奇妙な光景(しかもそのシーンの主役は自分自身である)に遭遇してもほとんど驚かず、ああ、また記憶がなくしてしまったか、と静かに一人ごちるだけだった背景にはそんな理由があった。彼にとっては自分の強い性欲の分身である逸物が、再び脈打ち始めたことのほうがはるかに驚きだったのだ。「待ってたぜ、相棒」とスジコはその分身に声をかける。すると、分身はまるで頷いたようにビクリと動いた――実際にはその運動は、随意的なものであったので、端から見れば(誰が?)完全に気が触れた男が披露した腹話術のようだったろう。
しかし、どういった経緯で再び力を取り戻すことができたのか。この点について、スジコはまったく思い出せなかった。すべてはおそらく記憶を失っている間に起こった出来事であり、それが残念で仕方が無い――もしも、この回復が一時的なものであり、またすぐに力を失ってしまうことになったら――と考えると喜ばしい驚きも途端に不安の影に包まれる。スジコは悔し紛れに自分の顔へとシャワーのヘッドを向け、水流を強くして口の中を水で一杯にし、ガラガラと嗽をした。それは彼がひどい二日酔いに陥ったときによくする癖で、そうすると幾ばくか気分が良くなるような気がしたのだ。口から吐き出した水と共に、不安や不快感が流れ出てしまうような……。だが、スジコが口から水を吐き出した瞬間に目にしたものは、またさらに異様な光景だった。バスタブのなかに、制服を着た女子高生と思われる女が倒れていたのである。しかも右のこめかみから大量の血を流して――彼女の頬を伝わり、首筋を伝わり、白いブラウスを汚し、排水溝に流れ損なった血液がバスタブのなかに血溜まりを作っていた。この地獄絵図には、さすがのスジコスミオも驚いた。驚きのあまり、自分の目が丸くなるのが分かったほどで、プラスティックの椅子から転げ落ちそうだった。「あの……すいません……」とスジコは震える声で女に声をかけた。このような特殊な状況に彼はどのような声をかけたら良いのか分からず、しばし考えた挙句、一応下手にでて声をかけたのだが、いざ声をかけた瞬間に果たしてこれで正しいのかどうか、という疑問が頭のなかに湧いた。だが、このような状況下において正しい声のかけ方ができる人間とは、果たしていかなる紳士だろうか?
女はスジコの声に応えなかった。恐る恐る女の肩を揺らしてみてもまったく反応はない。そのときすでに半分確信していたのだが、念のため、女の細い首に触れるとすでに生物が持つぬくもりと言ったものは、女の体から消え去っていることが分かった。女の黒い髪は乾き始めた血液で部分的に固まっている。どうやら死んでからしばらく時間が経過しているらしい。でも、どうして!スジコはひどくうろたえながら、風呂場を出て、濡れたTシャツに裸の下半身という半人半原始人状態のままリビングにおかれたテーブルのまわりをぐるぐると回り始めた。まるで安上がりなドラマに登場する名探偵のように。だが、事件を解き明かす鍵や名案といったもの――なんでも良かった。彼をこの不可解な状況から救ってくれるものであれば――は一向にやってこなかった。俺がやったのか?肌に張り付いたTシャツのところどころに血の斑点がついているところを見ると、その可能性は多いにある。しかし、見方によれば、何らかの事故にあった女を助けたときにTシャツに血が付着したのだ、という風にも考えることができる。俺になにがあったんだ?――そう考えるうち、彼はあまりにせかせかと歩き過ぎたせいで疲れはじめていた。しかし、股間にある自分の分身は衰える様子がない。一体、こんなときに俺の下半身は何を考えているのか……?懸命に餌を貪ろうとする亀のような姿の陰茎へとスジコは再び声をかけた。「もしもし、亀よ、亀さんよ」と。その後、もう3度テーブルの周りを歩いてからさらに語りかけた。「いや、その呼び名は正しくない。お前は獅子。今眠りから覚めたばかりの獅子だ。もしもお前に百獣の王としての自覚があるならば、その誇り高き精神を以って我を助けたまえ」。スジコは今度も自らの分身を随意的に頷かせようとしたが、このときは歩きながらだったため、自分の意思によって“彼”が動いたのか、それとも自分の運動によって生まれた作用によって動いたのか判断がつきかねた。
そこで彼は歩き回るのをやめ(急激に馬鹿らしくなったのだ)、とりあえず、ビールを飲むことにした。
冷蔵庫からアサヒスーパードライの銀色の缶を取り出して、プルタブを起こすと中から炭酸ガスが漏れる音がいつものように聞こえた。この音にスジコは安心し、少しだけ冷静になることができた。自分が異常な状況――月並みな表現であるが、まるでカフカだ!――にいることを知ってから、彼が初めて触れた平常であるものが、その音であったのだ。それから、正確に45度の角度で缶を傾け、350ミリリットルの半分ほどを一気に胃の中へと流し込むと、ほんの少し救われたような気がした。一本目は三口で空になり、すぐさま、二本目へと取り掛かる。飲み慣れた苦味が喉を通り過ぎていき、自然と喉が鳴る。次第にそれは規則的なリズムへと変わった。ゴクゴクゴク(ゲネラル・パウゼ)ゴクゴクゴク(ゲネラル・パウゼ)ゴクゴクゴク(ゲネラル・パウゼ)。リズムは音楽としてスジコの耳に響き、たしかこのような曲を書いた作曲家がオーストリアにいたはずだ、とスジコは思った。それは彼の精神のなかにささやかな余裕が生まれた結果だった。増加していく血中アルコール濃度が、スジコの緊張を解していく。七本目の缶を半分まで空け、胃の中でたぷたぷと音がするようになる頃にはスジコの気持ちはすっかり朗らかなものになり、風呂場にある女子高生の死体についても、まぁ、なんとなかなるだろう、と大きな気持ちで捉えられるようになった。さらには先ほどまではまったく浮かばなかった“名案”が浮かんでくるのである。彼はリビングの床にピラミット状態で積み上げられた膨大な蔵書のなかからコリン・ウィルソンの著作を器用に取り出して、十三人の女を殺し、死体を硫酸で溶かして処理をした十八世紀の犯罪者のページを読み始めた。「これだ!」とスジコが叫ぶ声が部屋の中に木霊した。ここで彼に「おとなしく自首をする」という考えが存在しなかったことを付け加えておきたい。そもそも、彼に「殺した」という記憶はなかったのだから、自分が殺した可能性が限りなく高いかもしれないが、自分が殺していない可能性も(たとえわずかであっても)存在していたのだ。彼は後者の可能性にかけた。自首してしまえば、前者を支持することになり、さらには後者の可能性を殺すことになる。なんて身勝手な論理なのだろう、という批判もあるかもしれないが、殺していない可能性を殺し、つまり誰も事実として最終的に決定付けることができない殺した可能性を生かし、さらにスジコが真っ当な人生を送る可能性を殺すこと(そして、事実として女子高生が殺されている)と、(事実として女子高生が殺されているが)殺していない可能性を生かし、スジコが真っ当な人生を送る可能性を生かすこととをどちらが正しいものなのか、倫理的、あるいは論理的に判断することは不可能であろう。それが可能であるとするならば、それこそ「誰もが事実として最終的に決定付けることができない」ことを可能とする、超越的な存在が必要である。
ともあれ、テーブルの上にあった空き缶をすべてゴミ箱へと放り込んだ後に、彼がおこなったことは風呂場にある死体を細かに検分し、それを処理するのにどれだけの量の硫酸が必要であるのかを調査することであった。もっとも彼は正確な化学の知識など持たなかったので、あくまで推測、どんぶり勘定のようなものでしかないのだが、少なくともバスタブを半分ぐらいまで満たさない限り、上手く処理はできないだろう、というところでスジコの考えは落ち着いた。後はどのようにして、それだけの量の硫酸を調達するかが問題であったのだが、幸いなことにスジコにはインターネットというものがあった。これがあればいまや自宅でも都庁のツインタワーを吹き飛ばすだけの爆発物を制作することが可能な時代である。硫酸の入手方法だって軽々と見つかるであろう、と合点したスジコはそこで初めてまじまじとバスタブに収まった死体の顔を見つめることとなった。「誰だか知らないが、死に顔もなかなか綺麗じゃないか、なぁ?」。スジコはいまだに衰えず、硬くなったままの“獅子”へと同意を求めた。眉間に向って美しく鋭角を描く鼻筋は美術品のようだったし、(こめかみから流れた血液によって右側の睫毛のマスカラはとれかかっていたが)死体の目は閉じていても、宝石のように輝く大きな目であることがわかる。それから、ふっくらとした唇のヴォリューム感といったら、いまにも吠えようとせんばかりの獅子に絡みついけば、快感が間歇泉のように吹き上がるだろう。
スジコはその美しい顔をした死体を前にして、欲情を隠せなかった。とはいえ、死体を犯すほどの度胸が彼に備わっていたわけではない。しかし、せっかくだから……という思い、彼は自らの鼓動を高める行為へと及んだ。スジコはシャワーの蛇口をひねって、水流を最大限にし、その勢いを自らの股間へと向わせた。「ほぅら、僕のライオンちゃん。君が待ち望んでいたスコールがやってきたよ」。スジコは視線を美しい死に顔へと向わせながら、股間へと言葉をかける。自分を慰めることに関しては手練であるスジコは、シャワーのヘッドと股間との距離を近くしたり、遠くしたりし、勢いに緩急をつけ、また水流が照射される角度を変えたりすることによって、愉しんだ。スジコにとってそこでやってきた、脊髄の末端部分から首筋へと走るような快感は、久しぶりに味わうものだった。「ああ!」。スジコは思わず大きな声を出すのだが、自分の喉から自然に出てしまった音声が鼓膜を震わせ、再帰的に自らの快楽を認識すると尚更快楽が高まっていくような気がした。ああ!!ああ!!!ああ!!!!スジコは我慢ができなくなり、それまで右手でシャワーのヘッドを持っていたのを左手に持ち替え、水流を不器用に股間へと当てながら、高速で右手で逸物をしごきはじめた。ああ!!!!!ああ!!!!!!!!!!ああ!!!!!!!!!!!!!!!!快楽はすぐさま絶頂の一歩手前へと辿り着く。スジコはその間に、光が自らの身体を飲み込むような感覚を味わった。その光は足元から徐々に、頭頂部へと進行していく。喉元まで光が及んだ頃には、呼吸も詰まりがちになる。全身がすっかり光へ飲み込まれると、その瞬間、右手が握っていたモノの先端に強い現実感をともった抵抗を感じ、さらに強い快楽に襲われる。同時に光はさらに眩いものとなり、スジコの視界は真っ白になる。まるで映画館のスクリーンのように。意識は遠のき、ショックのあまり、左手に握ったシャワーのヘッドを落としてしまう。
カラン。
その音が耳に入ると、スジコを包んだスクリーンへと映像の投射が始まった。
(つづく)