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2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

奥村隆『ジンメルのアンビヴァレンツ』

奥村隆『ジンメルのアンビヴァレンツ』(PDF)
 何気なしに学生時代の恩師が書いた論文を読んでみた。これはゲオルク・ジンメルヴェーバーやデュルケム、そしてマルクスとはちがった社会の捉え方を検討したもの。こういった社会学についての文章を読むのはひさしぶりだったけれど、とても面白く読む。「個人に対し、社会が存在する」という構図ではなく、さまざまな要素が絡み合って、個人のように見える、あるいは社会のように見える(個人も、社会も確固たる実在性を持っているとは言えない)という議論をジンメルは提示し、そのような“見える化”を彼は「相互作用」という風に呼んだ。同語反復のようだけれど、この相互作用によってこそ、社会や個人が成立するのだ。奥村はこの観点を『エリアス・暴力への問い』で、ジンメルとエリアスの観点の類似について指摘する際に参照しているが、読んでいて思い出したのは馬場靖雄の『ルーマンの社会理論』であったりもする――システムの構成要素はコミュニケーション、とか。


 奥村はジンメルのこの観点を「社会という悲劇」を発見しないもの、として評価する。ここで言われている「社会という悲劇」は、村上春樹の表現を借りるなら「壁に卵が押しつぶされるような状況」と換言することができるだろう。論文の冒頭では、ヴェーバーやデュルケムやマルクスが発見した悲劇について触れられている。しかし、ジンメルはそのような発見をおこなわない。「ここには目的もない。結果もない。悲劇もない。真実もない。ただ、関係のための関係、コミュニケーションのためのコミュニケーションが続いていく」。これがジンメルが描いた社会の姿である。悲劇を発見した社会学者たちが描いたものを、彼は遊戯的なものとして捉えることによって、発見を自ずから回避する。「社会という悲劇」のなかで描かれたものが、社会の目的のために個人の目的が抑圧される、だとか社会のなかで個人の目的が達成されない、という状況なのだとしたら、ジンメルは逆に目的が達成されることが悲劇と化す、というような見方をする。この点はとても興味深い。奥村が紹介しているジンメルの「コケットリ」についての例を以下では引用しておこう。

男が女を好きになり(そこにはエロティックな衝動という「内容」があることだろう)、彼女を求めるが、女は「与えることを仄めかすかと思えば、拒むことを仄めかすことで刺戟し、一方、男性を惹きつけはするものの、決心させるところまではいかず、他方、避けはするものの、すべての望みを奪いはしない」。(中略)もし拒否したり彼のものになったりしたら、その瞬間に彼女はある内容・リアリティに釘付けされて、その動きは止まり、魅力はなくなるだろう

 男が女を得る、それが達成された時点で相互作用は終了してしまう。奥村の論文のなかでは、ジンメルが使用した以上のような喩えがいくつも引用されている。そこではつねに目的の達成が、分離や断絶を生み出すことが意識される。男が女を得ることによって、一見、結合が生み出されたように見える、が、その時点で魅力を失う、という分離が生じる。結合と分離が同時に発生する、というジンメルの“センス(と奥村は呼ぶ)”は私にも興味深く思われた。


 ジンメルは相互作用がつねに続いていくことをあるべき社会の姿である、として考える。奥村はこれを評価する一方で、この終わりのなさもまた、ひとつの悲劇なのではないか、という見方も与えている(これがタイトルの『アンビヴァレンツ』と繋がっている)。ジンメルは「『社会という歓び』は、『結合』するほど、近いほど、温かいほど、理解するほどいい(『歓びだ』だ!)、とする『通俗的見解』」を切り捨てる。しかし、我々の根源にはそのような「通俗的見解」を希求するような欲望が根深く存在しているのではないか(例えば、他者と完全に同一になりたい、というような)、というのが、奥村がジンメルに感じるアンビヴァレンツであったように思う。