菊地成孔ダブ・セクステット『The Revolution Will Not Be Computerized』
The revolution will not be computerizedposted with amazlet on 07.12.23Naruyoshi Kikuchi Dub Sextet
ewe records (2007/12/19)
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俺はニュー・ペインティングつまり新具象みたいな感じというか、抽象を描くのではなく、「花が描いてあります」とか「裸の女が描いてあります」とかはっきりと誰にでもわかるものが描いてあるんだけれど、「花はきれいだ」というような解釈が全く不全で統一できない、解釈が拡散していくような新しい具象に向かって行きたい。(中略)……誰が聴いてもやりたいことがわかるけど乾燥があまりにバラバラ、というようなことができたらいいと思っている*1。
近年の菊地成孔の作品を聴くたびに思い出すのは上に引用した菊地の発言である(大谷能生、大友良英との鼎談)。彼の音楽は、ひとつのはっきりしたテキストから読みの可能性が過剰となって現れるような方向へと確実に向かっている。それについて、我々は、解散したDCPRGのラスト・アルバムが、極度に抽象的で、かつ全体の把握が困難な複雑な構造を持っていながらも「どう聴いてもファンク」、もう少し広く捉えるならば「どう聴いてもダンスミュージック」であったことや、菊地成孔名義で発表された『南米のエリザベステイラー』以降の作品が一貫して「(いかがわしい)夜の音楽」といったムードを纏っていることを考えるだけで良い。
今回の新譜、菊地成孔クインテットライブダブを解散*2し、新たに結成された菊地成孔ダブ・セクステットのアルバム『The Revolution Will Not Be Computerized』も「解釈の過剰」へと向かう新たな一歩であるように思う――音響処理と編集の連続加えられていようが「これは誰が聴いてもジャズだ」と断言できる内容である(特にアルバム一曲目、冒頭の不穏さからサックスとトランペットによるリフによって「ジャズ的なムード」へと引っ張っていく力強さは最高だ)。迷うことはない。「とりあえず」このCDはCD棚のジャズ・コーナーにしまっておけばよろしい。
また、このようにはっきりと音楽に「ジャズ」という文字が刻まれているのにもかかわらず、様々な読みが可能である点もこれまでの路線を踏襲していると言えよう。読み手がどのような読解コードを持った読み手であるかによって、読みの可能性がどのように展開されるかは左右される。そのため「正しいひとつの読み」などというものはそもそもどんなものについてであれ存在していない。しかし、菊地が他と異なるのは「このジャズ」という文字に含まれる情報量が極めて多いために、その可能性を大きく広げているように思う。そして、彼の音楽は解釈可能性と不可能性の境界線ギリギリの地点から聴こえてくる――その音は、マイルス・デイヴィスの、クラブ・ジャズの、夜の、ダンス・ミュージックの……記号であるように読める。
しかし、このように読めてしまえば読めてしまうだけ、この音楽が「新しくない」ということが明らかになっていく、という点も忘れてはならない――様々な記号として音楽を認知できるということが「既にそれが知られた存在である」ということを証明している(本当に新しい/未知の音楽であるならば、それは『ジャズ』とすら呼べないはずだ)。様々な読みの可能性を含み、そして様々な解釈の型をはめられる音楽は一見目新しいもののように思える……が、実は、過去にあった音楽の記号の/集合に過ぎない。
このとき、音楽は近代的芸術人が取り組むような「創造」からではなく、記号の組み合わせによってパズルのように製作される「遊戯」からの産物と化している――もちろん、これは戦略なのだろう(この戦略すらも、アルフレート・シュニトケやドミトリ・ショスタコーヴィチ、そしてルチアーノ・ベリオといった作曲家が行った戦略と重なって見えるのであるが……)。そして、ここから窺い知れるのは「新しい音楽への断念」である。このジャズが「ジャズが死んだ後のジャズ」、あるいは「神なき時代におけるジャズ」のように読めてしまうのも、そのせいかもしれない。
……以上は批判を全く意図しておらず、そして大部分が過剰に「批評ぶったインチキ」として書かれている。一言で本音を書いておくと「今年出た日本人アーティストのアルバムで一番カッコ良い」という感じである。全編に“ミステリオーソ”な雰囲気が漂っているのだが、ラストに収録された坪口の分かりやすい変拍子系のダンサブルな曲が綺麗に締めていて、そのコントラストが素晴らしかった。