加藤鷹による性の啓蒙
最近、音楽以外のもので「あ!」と思わせられたYoutube動画は、こちらの映像である。映像は、詳細はよくわからないのだが、福岡のローカル番組(おそらく深夜枠)に加藤鷹が出演し、その秘技を解説する、というもの。加藤鷹に関しては、今更説明するまでもないけれど、日本で最も有名なAV男優である――AV出演数は6000本以上、相手をした女優は5600人以上という記録は驚異的だ(ヨーロッパの伝説的性豪、ドン・ファンでさえ1000人ちょっとの記録を残した時点で、地獄に落ちたというのに)。
ここ数年、彼は政治・教育に関する発言をすることが多く(たぶん近いうちに秋田県議会あたりから本当に政治の舞台に立つ、と思う)、そのたびに「へぇ、結構マトモなこと言ってるよな……(肌の感じとかヤバいけど)」と関心させられていたのだが、この動画を見て、本来の職業である超一流AV男優としての技に感動さえ覚えた――こういうもの観て「へぇ、そんな《技》があるのか」と試してみたくなるのは男の性かもしれないが、これはレベルが高すぎる(クンニしながら、鼻でクリトリスを攻め、顎でアナル周辺を……ってどんな四次元殺法だよ!)
ところで、これを観ながら思い出したのはマックス・ホルクハイマーによるマルキ・ド・サドについての記述だった。直接、ホルクハイマーの著作からではないけれども、その部分を藤野寛『アドルノ/ホルクハイマーの問題圏(コンテクスト)』という本から引用してみよう。
性に関してもっとも啓蒙された精神としてホルクハイマーが評価するのは、サドである。サドと聞くと、もっぱら倒錯した性行為に関心を差し向けた感性的欲望の権化、反理性の輩という連想が働きかねないところだが、ホルクハイマーに言わせれば、彼はいかなる幻想、偏見からも自由に性を見つめ、これをあくまで理性的に表現にもたらした、啓蒙的性道徳の代表選手にほかならない。サドにあっては、セックスとは、肉体を用いてする数学的行為とでも言うべきものである。いわば快楽計算のようなものにもとづいて、最大の快楽値をもたらす究極のセックスとでも呼ぶべきものが冷静に追求される。セックスはとことん技術化され、スポーツとほとんどかわるところのないメカニックな身体運動となる。そこでは「一瞬たりとも無駄にはされず、体に開いた一つの穴も放置はされず、いかなる機能も働かずにすまされることはない」のである。
どうだろうか。この引用部を経由することで、加藤鷹という単なるAV男優の像、(ホルクハイマーの描く)サド像と見事に重なりあわせることができるのではないだろうか――そしてこのような布置を経ることで、加藤鷹のラディカルさが我々の前に浮かび上がるのである。
「あなたは何故、セックスをするのですか?」という問いを投げかけられ、「お互いの気持ちを確認するため」という答えを返す人は多い(らしい。信用ならないものだろうが、男女ともにその回答がトップになっている調査結果を見たことがある)。ちなみに、同じような問いに対して、加藤鷹も同じように答えていたと思う。しかし、一般的に言われる「お互いの気持ち(愛、と換言可能だろう)を確認する」という言葉の内容と、加藤鷹が同じことをいうときのそれとには大きな違いがあるように思われるのだ。
加藤鷹的な意味においては、確認とは「ただ挿入する/した」という事実の確認だけで済まされることではない。むしろ、そのような雑なセックスは、最も確認行為から離れたところに位置するものとして退けられることだろう。加藤鷹的なセックスでは、「快楽」がその確認のための指標となり、それを与える/られなければ、愛は存続し得ないものとなるのである――このようにして、性の啓蒙はセックスの意味を変容させてしまう。
ただし、このように快楽を指標として愛の確認をおこなうセックスの不毛さも指摘できるだろう。それについてはマックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を参照されたい――快楽を与えようとする対象(他者)が「沈黙を守る神」であることは、拭い去ることのできない事実である。「《本当に》気持ちよくなっているのか(演技じゃないのか?)」という証明不可能な問いは、更なる啓蒙を呼び起こすだろう。しかし、破られることのない沈黙が常に行為者の前に立ちはだかっているのである――啓蒙の終わりのない円運動のなかに、行為者はとらわれ続けることになる。
スロー・セックスを、そのような近代的・啓蒙的なセックスに反対する、前近代的・反啓蒙的なものとして位置付けることが可能だろうか?(少なくともスローライフ/LOHAS的なものとの近親性は認識できる)
スローセックス実践入門――真実の愛を育むために (講談社+α新書)posted with amazlet on 07.10.29