阿部和重『アメリカの夜』
愉快な気持ちになりたかったので、阿部和重を読んだ。前回読んだのは『グランド・フィナーレ*1』で、2冊目である。「処女作には、その作家のすべてが表れる」と言われているが、それを無言で頷かせるような良い作品だ、と思った――何が良いかって、全体が陳腐さの塊のような小説であるところなのだが。
ミシェル・フーコーが『言葉と物』のなかでセルバンテスの『ドン・キホーテ』を取り上げて論じたようなテキストと主体との関係性、武道における「型」と「動作」との弁証法的な身体論、または作品と批評が入り組むような構造――この作品中で指摘できる事柄の多くが異常なまでにニューアカ的なものを感じさせる。このあたりから(既に下火になった感があるけれども、つい最近まで雑誌などで見受けられた)「80年代総括」が、1994年に発表されたこの作品において、完璧なまでに成し遂げられているようにも思われる。
しかし、そこでは「80年代的なもの」が陳腐に/戯画化されるようにして描かれ(例えば、ニューアカ的なものも、ごく簡潔に伝えられることによってその矮小さ――『なんだ、こんなことかよ』というガッカリ感――が剥き出しになっているように思われる)るところには、否定的なまなざしが透けて見える。ただし、総括している現在地点を肯定的に見ているわけではない。はやくもここに「90年代的な鬱」が見え隠れしている……ということで、阿部和重という人はとても敏感な人なのかもしれないなぁ、などと思いながら読んだ。
びっくりするほど空虚で何もない(そこが良いんだけど)。これもまた「時代の小説だなぁ」と思ったり。