sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

コンロン・ナンカロウ

 今年、2007年はコンロン・ナンカロウの没後10周年にあたる年だそうな。

 ナンカロウという人はアメリカ生まれでスペイン内戦時に共産党へ入党、以降はアメリカへの帰国が認められなかったためにメキシコに移住した、という経歴を持った作曲家。上に挙げたアルバムは彼の室内楽作品を集めたものなのだが、そのような変わった経歴から想像されうるアウトサイダーな空気を如実に感じ取れる音楽が多く収録されている(顔もヤバめ)。アルバムのなかには「元ジャズ・トランペッター」という作曲家の経歴を物語るような作品もあるのだが、やはり面白いのは「自動ピアノ」のための作品である*1

 「自動ピアノ」という楽器は、ロール紙に穴をあけ、それにポンプで送り出した空気を通すことでピアノのハンマーを動かすという自動楽器の一つ。プルーストの『失われた時を求めて』にも「ピアノラ(自動ピアノで最も人気があった商品)」、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』にも重要な小道具として自動ピアノは描かれているのだけれども、これが「有名なピアニストの生演奏をあなたの自宅へ!」というような謳い文句で売り出され、欧米の上流階級の間で20世紀初頭に評判を呼んだそうである。ピアニストの演奏を記録したロール紙は交換可能となっており、言ってみればレコードが普及する以前に流行した最高級の「音楽複製技術」ということになるだろう*2

 ただし、ナンカロウの自動ピアノの用い方はそういった「複製」というところを飛び越えて「創造的な使用」に至っている。ロール紙に直接パンチ穴を打ち込むことによって、人間には演奏不可能な複雑なフレーズを「演奏可能」にしてしまう、という試みはなんというか「音楽のサイボーグ」を作っているようだ。このアルバムでは《ヴァイオリンと自動ピアノのためのトッカータ》以外の自動ピアノ作品は全て2人のピアニストの連弾用に編曲されていて本来「機械的に超スピードで演奏されるフレーズ」の数々に人間的なフレーズ感が加わっており、それが良かったり悪かったりだけれども、暴れまわるピアノの音は大変狂っていて面白い。最も作曲時期が早いものでは1935年のものがあるけれど「1935年のエイフェックス・ツイン」みたいな形容がよく似合う。

 「より高密度のフレーズを、より複雑な音楽を……」とナンカロウの自動ピアノ作品が進化していくところには強くモダンの宿命を感じるけれども、後期の作品はあまりにも複雑になりすぎて自動ピアノですらも書かれた楽譜を再現できなくなっていたそうな。それに対するナンカロウの態度は「まぁ、良いんじゃねーのか?」という投げやりな感じ。「人間には演奏不可能なエクリチュールを現実の音として鳴らす」という当初の目論見がここでグダグダになっているけれども、そのようなユルさもまたアウトサイダー・ミュージックな感じがして良い。

*1:「ジャズ的」な作品もそれはそれで面白い。《小オーケストラのための小品》第1番などはフランスの6人組がジャズをやったら……というイメージをかきたてる

*2:このあたりの話は『聴衆の誕生 ポスト・モダン時代の音楽文化』に詳しい