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2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

ルイジ・ダッラピッコラ

ダッラピッコラ:とらわれ人
サロネン(エサ=ペッカ) ボリン(ペル) スウェーデン放送交響楽団 エリック・エリクソン室内合唱団 ブリン=ジェルソン(フィリス) ハスキン(ハワード) スウェーデン放送合唱団 ハイニネン(ヨルマ) アレクサンダーソン(スベン=エリク) ウェイディン(ラーゲ)
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 20世紀イタリアの作曲家、ルイジ・ダッラピッコラというとイタリアで初めて12音音楽を用いて作曲をおこない、それから歌劇《囚われ人の歌》によってムッソリーニに対する反ファシズム的な声をあげたことが知られております。生没年は1904年から1975年、ドミトリ・ショスタコーヴィチとほぼ同時代人。ショスタコーヴィチもまた、イデオロギーに対しての反抗を作品のなかに「隠した」ことで知られており、両者を並べてみると20世紀の音楽史に名を刻むということにおいてどれだけイデオロギーが重要な点であるのか、ということを私は考えます。もっともこの両者は、シェーンベルクブーレーズのように音楽自体に「新しい音楽秩序の確立」というイデオロギーが含まれているわけではなく、ショスタコーヴィチと《囚われ人の歌》には「反-イデオロギー」という点で共通点をある、と言えるのですが。
 さて、ここまでダッラピッコラという作曲家をまるで「イタリアの現代音楽界の最も重要な人物である」かのように語ってまいりましたが、音楽をめぐる様々な批評的文章を顧みますと「現代イタリア音楽の盲点」の一つというのが実際のところではないでしょうか。1950年のダルムシュタット夏季現代音楽講習会において、カールハインツ・シュトックハウゼンピエール・ブーレーズらと共に第二次世界大戦以降の楽壇のスター的存在に躍り出たルイジ・ノーノや、多彩な音楽語法と斬新な視点によってトータル・セリエリスムとは一風違った位置を確立したルチアーノ・ベリオと比べてしまうと、2人の一世代前に生まれたダッラピッコラはいかんせん地味な存在です。同時代人であるジャチント・シェルシでさえもスペクトル楽派の先駆者として語られることが多いというのに!

 反ムッソリーニの「問題作」である歌劇《囚われ人の歌》が素晴らしい作品であることは私も感じるところです(それとその後に書かれた《囚われ人》という作品も素晴らしい。12音音楽とグレゴリオ聖歌の融合が試みられています)。しかし、誤解して欲しくないのは、彼が生涯を通じてそのように「スキャンダラスな作品」を書いていたわけではない、ということ――この点がダッラピッコラの「地味さ」の要因でもあるのです。
 ナクソスから発売されている彼の「ヴァイオリンとピアノ&ピアノのための作品全集」を聴いてみると、ダッラピッコラが実に「美しい作品を書く実直な作曲家」であったということがわかります(それが地味に捉えられてしまうのは、モダニティの宿命、といったところでしょうか)。特に聴いて欲しいのは《アンナリベラの音楽帳》(1952年)という作品。B♭-A-C-B(B-A-C-H)というバッハのイニシャルをモチーフとして使用した「シンボル」から始まるこの作品は、厳格な書法をもって様々に変奏されてゆきます。一つ一つは短く、音数もそれほど多くないところに抑制された美しさがあり、生まれる響きは非常に独特である。そこにはヴェーベルンの影響を感じさせながらも、《フーガの技法》の20世紀的変奏という代名詞が浮かんでくる名作だと思います。バッハへのオマージュを含む作品は数あれど、そのなかでも素晴らしい部類に入る。
 また《インニ》(1935年)というピアノ作品も興味深い。ベースラインの動きや厳格な対位法も素晴らしいのですが、やはりここにもヴェーベルンの影を非常に強く感じます。《インニ》は3楽章構成の作品ですが、この曲の第3楽章で聴くことの出来る「小さなモチーフ」の変奏と対位法には「樹の枝状の発展形式」がみえる。響きは協和的で、坂本龍一がパクっててもおかしくない感じ。

 「ダッラピッコラは、もっと聴かれるべき!」と大声で言いたいがためにエントリーを書きました。