sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

構造的聴取を超える

Morton Feldman: Triadic Memories
Morton Feldman Sabine Liebner
Oehms Classics (2005/06/21)
売り上げランキング: 49167

 ジョン・ケージなどと一緒に活動していた作曲家、モートン・フェルドマンへの再評価が徐々に徐々に高まってきているようで少しドキドキとしている(今年生誕80周年なのだそうだ。ちなみに既に故人である)。彼の書く作品は、異常なほど「動き」が少なく静謐で、そして異常なほど長い。図形楽譜を考えたのも、彼だったらしい。今年日本の作曲家、川島素晴のプロデュースによって晩年の《Three Voices》という作品が日本で初演されたけれども1曲75分のヴォリュームだったそうな(初演時は90分以上!)。1曲6時間とワーグナーの《楽劇》並の長さを誇る作品もあるそうだから、CDの規格には向かない稀有な作曲家だった、とも言えるだろう。アナログ時代に録音されたことがあったんだろうか。

 《Triadic Memories》という彼のピアノ曲も長い。ドイツのクラシック・レーベル「OEHMS」から出ている2枚組のCDでその全貌を把握することができるが、1楽章は67分41秒、2楽章は56分28秒、合わせて2時間以上ある。このピアノ曲では短いフレーズが空白をあけて演奏され、変容していく……と説明するとまるでライヒやグラスのように思われてしまいそうだけれど。まぁ、これも一種の「ミニマリズム」には違いない(聴いていて大友良英Sachiko MのFilamentとの近さを感じた)。時間の間隔を引き延ばすような不思議な力を持った音楽だと思う。「え……まだ30分しか経ってないの?」と何度も思ったが、それは退屈とは違う。

 20世紀に書かれたピアノ曲は数多くあるけれども、フェルドマンのこの作品が極めて異彩を放っているのは、それが「構造を把握すること」から逃れきった作品であるということだ。それは構造的聴取からの逃走を意味する。アドルノは言う「音楽に集中せよ」、「音楽と対峙せよ」と(シェーンベルクを『理解する』には、その方法しかないのである)。ピエール・ブーレーズの書くピアノ・ソナタもそのように理解されなくてはならなかったし、おそらくカールハインツ・シュトックハウゼンルチアーノ・ベリオの作品もそうであろう。それらは一見して「抽象的な作品」のように聞こえる。しかし、楽曲の構造は実に具体的であり、むしろ構造こそがその具体的な内容であった。しかし、フェルドマンの作品はそういった理解をも拒む。長い空白と延長されるピアノの残響によって、構造は聴衆の記憶から「忘れ去られる」。鳴らされるフレーズは常に反復のようであり、常に新しい――そこにはフェルドマンにしか描くことのできない本当の意味で「抽象的な音楽」があるような気がする。