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2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

アドルノの『マーラー論』/マーラーとアドルノ思想

マーラー―音楽観相学
テオドール・W. アドルノ 龍村あや子
法政大学出版局
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 アドルノマーラー論は二つの点で面白い作品だと思う。

 一つはプレ・ハンスリック的な感情美学によってマーラーを描くことを退け、厳密にエクリチュール(《書かれたもの》としての楽譜)からマーラー像を立ち上げようとしているところ。ただし、そこでアドルノは「作曲法上の問題」についてだけ着目したり、単なる主題分析のような仕事だけにとどまることをしていない。結局こういった態度はシェーンベルクの「わたしの作品は、12音の楽曲であって、12音の楽曲ではない」という言葉や、『否定弁証法』の「理性による分析は秩序の産出に過ぎない」という言葉からも導き出せるように思う。要するに、アドルノの思惑は「分析によって作品がどのような(how)ものか」というところではなく、「作品はなんで(what)あるか」というところなんだろう。そのwhatを導き出すことがアドルノにとっての批評の意味なのだ。

 で、そのアドルノの批評的な方法論はといえば、作品を意味産出のための素材として、媒介*1として扱い、作品以外のものとの布置連関から「意味」を描き出すものなんだと思う。こういう方法はかなり自由なことが言えちゃうような気がするのだが、結果としては感情や文学的に作品を語ることによって生じる不自由さを打破している。例えば「マーラーは厭世的な人生観を……」という言説などによって(特に後期の)マーラー交響曲*2が「厭世的音楽」のように回収されてしまうことをアドルノは退けている。マーラー論でありながら同時にこの作品が、アドルノの同一性批判を伝えているのはこの点だ(ここが個人的な『二つ目の面白さ』)。

 ところどころに文化産業批判もある。例えば「マーラーの長さについて嘆くのは、フィールディングやバルザックドストエフスキーの縮小版を売りとばすというような考えと同様に品がない」と聴衆を叱責し、彼らの耳がイージー・リスニングなどによって「商品的音楽聴取」という地位まで貶められていることを指摘する。この辺は「いやぁねぇ、アドルノってホントにエリート主義的ねぇ」と言われてしまう要因だろう。この箇所ではさらに「マーラーブルックナーを部分的に削除することにより楽しめるものにしようというのはナンセンスな限り」とアドルノは言う。そこでは、マーラーの弟子だったオットー・クレンペラーの言葉も引用される――「それは彼らの楽章を引き延ばすことになって縮めはしない」と。

 少し前、私の指導教官から「ところで、あまり関係ないかもしれませんがアドルノはどんな指揮者が好きだったんですか?」と質問されたことがある。『音楽社会学序説』にはトスカニーニに対するバッシングがあったけれど、少なくともマーラー論におけるクレンペラーの扱いに関しては好意的なような感じに思った。クレンペラーがフィルハーモニア管を振り、シュヴァルツコップが歌った《復活》がEMIから発売されたのは、1963年のこと。ちょうど『マーラー』第二版が出版された年だ。単なる偶然だけれど、どんな風に聴いたんだろうか、と思う。

 クレンペラーマーラーは異常にテンポが速かったり、テンポ変化が巧みだからかなり好きだ。これを聴いてしまったらワルターの演奏なんてヌルく感じてしまうんじゃなかろうか。マーラーの第九と《復活》ではだいぶ表情が異なるけれど、クレンペラーマーラーには一切「厭世的/耽美的/世紀末的な気だるさ」が無く、とても立派な感じが美しい。

*1:「現象のうちに潜む歴史社会的媒介性」。アドルノの用語

*2:さらに付け加えるならば、緩叙楽章