ジャズ批評対ジャズ批評
卒業論文でアドルノを取り扱っておりますが、そこで「アドルノ(テキスト音楽を語るもの)対ジャズ批評(非テキスト音楽を語るもの)」という章を設けようとおもい、半年ほど前からジャズについての批評文をこそこそ読み続けております。が、植草甚一を読んだあたり*1から「なんか正直面白くないなぁ……」と思い始めて、さぼっていました。ジャズに関する文章は、音楽と感情が直結して考えられているのが多くて、ずっと読んでいると食傷気味になります。
平岡正明の『ジャズ宣言』はしばらく前に古本市で買っておいたもの。これはそういった音楽と感情を直結回路で結んだような批評に対する批判もあって「面白い!」と思った。積読が大変なことになってきたため、本の山を崩そうと期待せずに読み始めましたが、侮ってはいけなかった!
オーネット(・コールマン)がエレヴェーターを最上階にとめてアルトサックスの練習をしていたのをみつかりクビになったという記事は、記事としてもユーモラスで、ニヤリとしたくなる味わいをもっているが、これと彼の演奏がどうかかわっているかは見当もつかない。じっさいこの小事件はオーネットの音楽には屁でもない
こういう音楽と人間とを切り離した考え方は、1930年代から1990年代にかけての本場アメリカのジャズ批評にも見受けられなかった斬新さがある。読んでいて時々「アドルノか!?フーコーか!?」という部分もあり驚く。「言語だけが思想ではないのですよ。アメリカの黒人はジャズとリズミックな身体の動きでものを考えているのかもしれませんぜ。」――まさにミメーシスじゃなかろうか。