sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

アドルノは静かに眠れない。

 『迷走する音楽』という本を宮下誠は書いており「現代美術を専門とする先生が何故現代音楽について書いているのか」とは前から疑問に思っていたのだが、値段が高かったので手を出さずにいた。そんなところに似たような内容の新書が出たことを知ったので読んでみることに。

 スペクトル楽派(原初をシェルシとするような)が無視されていたり、ヒンデミット新古典主義を「誤読」していたり「ああ、やっぱり専門家の書くものじゃないよな……」と思うところがいくつかあったけれど、内容としては悪くない本だ。一応、20世紀音楽は俯瞰できる。個人的な趣向からいえば、ルイジ・ノーノの扱いは酷すぎる、と思ったけれど(極左の政治的メッセージを取り扱った作品のみの紹介って……)。

 たくさん作曲家の名前が載っているから「現代音楽って聴いてみたいな」という人には良いかもしれない。面白そうなものを見つけたらCDを買えばよろしい……と細かく文句を言いつつ本を紹介してみましたが、本当はこの本を読みながらめちゃくちゃイライラしました。「これは大学の先生が書くような本ではないなぁ……」と。まえがきの部分で「私は音楽を専門としないので……」と言い訳をしているのがまずダメ(じゃあ、書くなよ)。

 それより気に障るのはこの本の目論見の中途半端さだ。

 筆者は「感情移入できる音楽=わかる音楽」とするのに対して、シェーンベルク以降の大部分の音楽を「感情移入できない音楽=わからない音楽」と置いている。「《20世紀音楽はわからない》けれど、《わからない》ままに《おもしろく》感じさせること。これは《わからない》けれど《面白い》と感じさせること」がどうやら目論見としてあるらしい。そういう態度はまぁ良い。個人的にもなんだかわからないものは好きだし、筆者も述べているように、ポスト・モダンの文化的状況は「畸形」を好むらしいしね。

 でも、やっぱり「感情移入できる音楽=わかる音楽」としているところが気に食わない。それこそ一番解体されなければいけない問題なんじゃなかろうか、と思う。音楽に限ったことではないけれど「共感した」とか「感動した」とかそういった感情移入的な言葉で、何らかの感情を言いくるめてしまうこと、あるいは「感情の(言葉による)囲い込み」ができないものを拒絶してしまうことが、私は問題な態度だと思う。

 もう一点。筆者はたくさんの楽曲の解説をしている。けれども、それは「わからない20世紀音楽」という混沌を、「面白く感じさせる」ために秩序だてているだけのように思えた。これがやっぱりこの本の目論見の中途半端さだと思った。もっとも「面白くさせる」には、いくぶん語彙が貧困な感じもするのだが。特に頻出する「前衛していてよい」という褒め言葉(?)には失笑させられた。