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2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

一部でアドルノ対ルーマン

社会の芸術
社会の芸術
posted with amazlet on 06.09.30
ニクラス・ルーマン Niklas Luhmann 馬場靖雄
法政大学出版局 (2004/11)
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 「アドルノが!アドルノが!」としばらく言い続けていたので「少し気分転換にルーマンでも読むか……」と思い『社会の芸術』を。少し現在の研究テーマとかぶるところがあるかなぁ、なんて思いながら読みはじめましたが、当然のことながら気分転換になるわけがなく、散々苦しみながら読了しました。ルーマン本人、それから訳者である馬場先生も触れられているとおり、1〜3章が一番キツい。けど、そのキツい抽象度の高い議論のなかに「ルーマンにしか言えないポイント(つまり、そこでしか読めないという『価値』を感じさせるもの)」がたくさんあるような気がする。第4章、第5章はちょっと凡庸な風に読めた。

 冒頭の方で「私がこの本で目指している帰結は、アドルノが言っているような話とは関係ないですよ」と宣言しておきながら、ルーマンは各所でアドルノを批判しているところがあり「なんだろうな……」とか思いつつその部分を読む。ルーマンが解釈したアドルノというのが、どうにやはり引っかかる。ルーマンによれば、アドルノは以下の二点のように『芸術、かくあるべし!』と言っているらしい。

  • 芸術よ、純粋であれ!あらゆる外的影響を拒絶せよ!!
  • 芸術よ、社会を批判せよ!

 この二点、どちらもルーマン的な視座からすれば簡単に批判することができる。まず前者は「そんなこと言ったって、芸術システムが他のシステムからの影響を被らないわけないじゃないっすか。できねぇっすよ」。後者については「えー、それじゃ芸術は社会の《反省》機能にしかならないってことっすか?それって自律してるって言えんの?」と。さらに「この二つを弁証法的に綜合しろ、って言ったって無理っすよ」とルーマンは言う。

 たしかにアドルノの思想はそういう風に読めるし、そうだとするならルーマンによる批判(というか斬り方)は正しい。でも、どうにも納得いかない。正しいけれど、全然間違っているように思える。というか私は「そういう風に読んじゃったら、全然アドルノがつまらない人になっちゃうじゃないか!」と思うのである。『社会と芸術』のある部分を読みながら私は漠然と「アドルノという人は、セカンド・オーダーの観察者の《考察》として読むよりも、ファースト・オーダーの観察から生まれた《声》として読まなくてはいけないんじゃないか」とか思った。まだ、全然(ルーマンの)「観察」について理解していないから、噛み砕いて説明することができなくてもどかしいのだけれど、要するに「アドルノは《社会学−者》というより《芸術−者》として理解した方が断然面白い」ということ。というか「《社会学−者》としては読めない」とさえ思う。

 じゃあ「どんな風に読んだら良いのか」っていう具体的な提案についてはまた今度(でも、私はこのブログで何度かそれについて書いているような気もする)。