sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

あやふやな立ち位置

 文庫化されたので読む。周囲の評判がすこぶる悪く心配だったが、私は良い小説だと思った。主人公のマリの周辺のいたるところに「私たちが現実に存在している立ち位置は、確固たるもののようで、実は全然あやふやである」と言うテーマが象徴として描かれている……と浅はかな読み方だけれどそんな風に思う。「世界の根源的な未規定性が…云々」と宮台真司なら言うかもしれない。現実的に考えてこの小説を読んだから、そういった「立ち位置のあやふやさ(もしかしたら明日急に私は犯罪者になってしまうかもしれない…とか)」に読者が気付くか、と言えば難しい問題である。カフカの『審判』が「不条理小説」と処理されてしまうのと同じように。

 ついこの間から私は大学一年生のゼミで学生の勉強を補助する、というアルバイトを始めた。ゼミの先生は元厚生省のキャリア官僚で、今はセクシャル・マイノリティの研究者、自身もゲイ、という面白い経歴を持つ人だ。「ワイドショーのコメンテーターにはなるなよ」、ゼミの第一回目で先生はそんなことを言っていた。「コメンテーターって自分がすごく超越的な視点に立って発言して、まるで『自分には事件を起こす可能性なんてまったくない』みたいな話し方をするじゃない?このゼミの皆さんにはそういう『高い視点』から降りてもらって『自分にももしかしたら事件を起こす可能性が充分あるんじゃないか』とかそういう気付きがあって欲しいと思うのね。研究を進めるなかで」。

 「立ち位置のあやふやさ」に気付くことの難しさを言おうとして、思い出したのがそんな最近聞いた話。何らかの主体的で、能動的な行動(読書よりももっと能動的な)が無い限り、「気付き」は訪れないように思われた。その行動が、例えば研究であったりする。小説内で言うなら高橋は「裁判の傍聴」によって気がついたわけだし。物事として「ああ、確かにあやふやだ」という話は理解できる。しかし、こういった感覚は「理解」というよりも「衝撃」でなくてはならないような気もする。