トマス・ピンチョン『逆光』
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トマス・ピンチョンの『逆光』についてはすでにhttp://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20101101/p2というエントリにて読書中であることを報告しておりますが、本日めでたく読み終えましたので改めまして感想を。読書中に個人的に最大の難所であったのは、第一次世界大戦直前の東欧における列強の政治的な駆け引きについて描かれていく第4部でした。第1部、第2部で次々に登場人物が出てくるのもなかなかしんどいのですが、読みなれていけば「コイツ、誰だっけ問題」は大体カバーできるので心配ありません(自然に読んでいれば、主要な人物についてはちゃんと思い出せるぐらい、整理された読みやすいストーリー・テリング)。あと、メキシコ革命の記述もツラかったですね……。メキシコ革命を舞台にした小説は、カルロス・フエンテスの『老いぼれグリンゴ』*1を読んでいたのですが、この内紛は指導者同士の争いが次々におこるうえに、派閥のパワーバランスも著しく変化しまくるので、覚えていられません。ただ、こうした政治的な背景についての記述を覚えていなければ、この作品を理解できないか? と問うたならば「必ずしもそうではない」ということが言えるでしょう。こうした記述は、物語に厚みもたせるための舞台装置に過ぎません。
『逆光』で興味深いのは、鏡像的なもの、について執拗なほど触れられていることでした。ここで私が「鏡像的なもの」という言葉で指し示しているのは、(前回の『逆光』についてのエントリにも書きましたとおり)《二つのバージョンのアジア》、《本物のヴィクトリア女王》といった「スキゾっぽい妄想(と便宜的に表現しておきます)」のことです――こうした今自分たちがみているあるものには、また別なバージョンがあり、もしかしたらそちらの方がホンモノなのではないか、という風に。これを「スキゾっぽい妄想」と便宜的に呼ばなくてはならないのは、こうした世界の見方が素粒子論、宇宙論、そしてかつての神学において盛んに議論されたテーマであるから。世界がまた別なようにもありえた可能性が、鏡に映し出された像のメタファーを通じて語られるのです。鏡と言ってしまうと、ホンモノとニセモノという組合わせを考えてしまいがちですが、その可能性は無限であるため、合わせ鏡の像といった表現が適切でしょうか。こうした世界観は、『メイスン&ディクスン』でも語られていますが*2、『逆光』では第一次世界大戦が大きな転回点として扱われているように思われました。この戦争によって世界は大きく変わってしまった、と。ただし、第一次世界大戦そのものについてはほとんど触れられておらず、間接的に描かれるのですが。
こうした世界の複数性に、登場人物たちのうちの幾人かは気付いていますが、それを口に出すと聞き手からは「狂っている」と一蹴されたりする。あるいはまったく理解されません。
……列車はいつも走っているとは限らないし、転轍機は必ずしも正しく切り替えられるわけではない(下 P.827)
印象的なセリフとして、エピローグ的な第5部で語られる上記のセリフを引用しておきましょう。ここでは世界のあり方が鉄道のラインの比喩で語られ、もしかしたら今いる世界は、間違った方向にポイントを切り替えてしまった結果なのではないか、という暗示が含まれているように思われます。しかし、そうは言っても、その世界に存在するものにとっては「起きていることはすべて正しい(By 勝間和代)」と開き直るしかないのでございます。そして、この小説が終盤に畳み掛けるようなスピードで、とってつけたように次々とハッピーエンドの花が咲き乱れていく様子は、ピンチョンもまたこうした勝間和代イズムに傾いていることを示しているようにも読めるのでした。
この勝間和代イズムはスピノザ、もっと時代を遡ればアベラールと通じています。世界にはさまざまな可能性があるように見える。が、しかし、こうした世界を作っているのは神様なので「間違った選択」をおこなわない。というか、おこなえないのですね。神様は全能であるため、間違った選択などをしたら、その全能性を出し惜しみしていることになってしまう。だから、神がおこなう選択とは常に正しい――という風に考えた哲学者たちが歴史上に存在しました。もしかしたらピンチョンはこうした人たちの支持者なのかもしれません。長大な作品のなかで語られるさまざまな人物の、さまざまな冒険――中央アジアな砂中都市《シャンバラ》、メキシコ革命、数学……といった――は、別な世界への一時的な越境とも受け取れます。また、このように考えると、歴史的事件の影でさまざまに暗躍したという、謎の飛行船〈不都合〉に与えられる役割もはっきりしてくるように思われます。空という超越的な視点から、彼らは世界を観察する。はっきり言ってしまえば、神的な視点に立つ人物、というわけです。
また、登場するあらゆるものに、そのものを映し出す他なる存在が用意されているようにも思われました。それがもっともはっきりしているのは、男娼でありイギリスの工作員であるシプリアンと、美貌の数学者であるヤシュミーンとの関係でしょう(ふたりとも同性愛者)。このふたりの間において、アシンメトリーな関係性が生まれ、それによってお互いにコンプレックス、あるいはトラウマが氷解していく過程はとてもドラマティックです。ただし(ネタバレになってしまいますけれども)、このふたりは単純に結ばれるわけではない。シプリアンは、ヤシュミーンの問題を解決するための媒介的な存在となり、自身は神と結ばれることを望んで物語の舞台から退場します。
それから、物語の中盤で主要な舞台となっているヴェネツィア。たまたま『逆光』を読んでいるときに、この京都の清水寺周辺を拡大したような水上都市(を含むイタリア北部から中部)を旅行していたのですが、そこで旅行ガイドさんが話していたところによれば「ヴェネツィアはゲルマン人の侵略を受けて避難してきた人びとが作り上げた都市」とのことでした。実際に歩いてみると分かるのですが、この都市、人口の埋立地を橋で無理やりつないで作ったようなところなんですね。それで「これもアメリカという国の鏡として登場しているのかもしれないなあ」とも思いました。
さて、だいぶ長い感想になりました。とってつけたようなハッピーエンドの嵐には、賛否両論があるでしょうし、正直言って私も「こんなにあっさり問題が解決していって良いのか!?」と思わなくありません。物語の運動量はラストに向かってどんどん失われていくような感じ。結末の美しさだったら『メイスン&ディクスン』のほうが素晴らしい、というが率直な感想でした。ただ、とんでもなく面白い小説だったことは間違いありませんし、『ヴァインランド』以降のピンチョンが進んでいる方向がまたクリアに見えてくる作品だったと思います。日本語で読めるようにしてくれた翻訳者の木原善彦先生と新潮社に感謝!