sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』

 村上春樹のエッセイ『走ることについて語るときに僕の語ること』が文庫化されたので読んだ。私はこの人の書くエッセイ(『村上朝日堂』のシリーズとか)が好きだ。結構笑えてしまうし、スラスラ読めてしまうから時間つぶしにちょうど良い。本当になにもする気がしないと気に読んでみると実にダラダラと時間が過ごせる。この本についても、そういった類のユーモラスなものかと思って読み始めたのだが、しかし、その予測はどうやら違っていたようである。

 
 筆者が長距離ランナーとしての生活をはじめたのは、専業作家となった1982年のことだという。彼のランナー人生は、専業作家としての人生とほぼ重なっているのだ。筆者は、小説を書くことと走ることは限りなく近い意味合いを持つものだ、という風に記している。だからこそ「『走る』という行為を媒介にして、自分がこの四半世紀ばかりを小説家として、また一人の『どこにでもいる人間』として、どのようにして生きてきたか、自分なりに整理」することが可能になる。あとがきに書かれたように、結果的としてこの本は「自分自身について正面から語った」本になっている。


 ディス・イズ・自分語り。これまで私は、村上春樹が嫌いだ、感心しない、という人が示す「嫌いな理由」がよくできなかったのだが、ここにきて「ああ、あの人たちはこういうところが嫌いだったのか」と思った。筆者はまじめに走るときには月に260kmの距離を走るそうだ。「どこにでもいる人間」と筆者は自分を語るが、月260kmも走る人間がどこにでもいたら恐ろしい。そういう嫌な自意識の隠し方(隠せば隠すほど、目立ってしまうような)が、本当にどこにでもいる人間(つまり私)には腹立たしく思える。あなたは全然どこにでもいる人間ではない。


 とはいえ、基本的には楽しく読める本だった。なんといっても、私も筆者と同じ長距離ランナーであるからだ――経験的にはまだペーペーで、ランナーというにはおこがましいけれども。走り続けるつらさや楽しみについてはおおむね理解ができるし、私がまだ経験したことのないフルマラソンについての記述はとても興味深く読めた。フルマラソン経験者は35kmからが本当の闘いだ、というようなことを言う。筆者も同じことを書いている。そう考えると、42.195kmという距離は、なんというか、絶妙な距離、なのだろう。


 もっとも良かったのは、100kmマラソンの体験をつづった文章で、これにはゴールの瞬間を捉えた写真が挟まれていた。その表情がとても良い。体の痛みと、その苦しさから解放される安堵がいり混じって、複雑な、表現しがたい顔をしながら筆者は写真に収まっている。村上春樹の写真というと、無表情で、無個性な顔が一層無個性に見える表情になっているイメージがあるのだが、この写真は違う。皮肉かもしれないが、これの写真が文章よりもずっと雄弁に「走ること」がどういった行為なのかを伝えているかもしれない。