ルドルフ・オットー『聖なるもの』
著者は20世紀を代表する宗教哲学者の代表作(つまり、宗教哲学書オブ宗教哲学)。タイトルに惹かれて読んでみようかと思ったのだが、思ったよりも収穫があり面白かった。この人、ゴルトアマー(パラケルスス研究者で有名な人)やエリアーデといった人にも影響を与えているんだってさ。本書『聖なるもの』は、タイトルのとおり「聖なるものって一体なんだろうね」ということを分析した本。中心となるのはもちろんキリスト教の話なのだが、未開社会の呪術や、道教・仏教・イスラム教など比較社会学的なアプローチも見られる。
著者いわく、聖なるものには2つの側面がある。それは合理的なものと、非合理的なものだ。前者に分類されるのは、今日では宗教に含まれた倫理や道徳といったもの。そういうものは人間の理性(悟性)で認識することが可能である。しかし、こういったものは宗教が発展していくにつれて、付加されていったものなのだ、と著者は指摘する。まず、非合理的なものがあった。それは、理性では捉えきることができないものだ。しかし、まったく認識することができないわけではない。感じることはできるが、考えきることはできない。そういったものを著者は「ヌミノーゼ」と名付ける。宗教における神の存在は、ヌミノーゼとして解釈できる。
紹介する順番が逆になってしまったが、本書ではまずヌミノーゼに象徴される宗教の非合理性を分析した後に、合理性の分析をおこなう。ヌミノーゼは捉えるきることができないものなので、当然完璧に表現することもできない。それは音楽を言葉によって表現しきることができないと同じことだ。しかし、過去にどうにかして人はヌミノーゼを表現しようとした。音楽や文学のなかに、あるいは聖書のなかにその努力のあかしが隠されている……と著者は指摘している。この部分がとても面白かった。
結論としては「キリスト教がやっぱり最強!」という話になるのだが(イヤ、マジで)こんな風に導かれてしまうのは、当時「キリスト教を特別なものとみなさずに、単に歴史的事実として分析していきましょうよ!」という学派が流行ったかららしい。当然、特別なものとしなくなった結果、キリスト教の権威は失われてしまう(研究者はみんな神学者なのに)。すっごいジレンマ。このジレンマを解決するために「じゃあ、どういう風にキリスト教が優れているのが、分析していきましょうよ! やっぱりスゴいハズだって!」という潮流が生まれて、オットーみたいな人がでてきた、と。神様を信じるのも大変なことなのだな、と思う。