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2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

村上春樹『1Q84』

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 久しぶりにコンテンポラリな日本の作家の小説を。そしてこれが久しぶりに「小説を読むってこんなに楽しいものだったんだ!」という感覚を味あわせてくれる素晴らしいものだった(最後にそんな気分になったのは、なにを読んだときだろう)。購入したのは2日前のことで、それから暇さえあれば貪りつくように読まされてしまった。そういう引力をこの作品は有している。そして、村上春樹流の言葉で、その引力に捕らわれた様子を表現するならば「どこか別な場所へと連れて行ってくれる」ようなものである。


 村上春樹が書くような文章によって、そういった結果が生み出される、ということはとてもすごいことなのではないだろうか、と読んでいる間に考えた。なぜなら、そういった力を持つ物語を書くには、衒学的だったり、異様な勢いがある言葉が必要だ、と思っていたからだ――例えば、中上やラテン・アメリカの作家たちのように。物語に限定しなければ、私にとってアドルノの文章はそのように作用している。だが、村上春樹の文章はそうではない。過剰とも言える比喩が多用されるにしても、あくまで流れは自然である。それは力づくに、ではなく自然に導くようにして、私をどこかに連れて行く。


 そこで私は、大いに楽しい時間つぶしができる。もうひとつ、なにかを考えるきっかけ(あるいは媒介)を与えられる。この2点があればその作品は読む価値がある、という風に(少なくとも私には)言える。繰り返すようだが、『1Q84』という作品は私にとって、大いに楽しい時間つぶしができるものであり、そして、なにかを考えるきっかけ/媒介を与えてくれるものだった。


 作品の内容について、ここでは触れるべきではない(『なにも知らずに読んで欲しい』というのが作者や出版社の意向であるので避けておく)が、できる限り内容を紹介しないように思ったことを書いておく。村上春樹の仕事のなかで『アンダーグラウンド』というインタビュー集は、大きなターニング・ポイントとなっている、という風に私は思っている。そして、この作品もまたポスト『アンダーグラウンド』的なものだ、という風に思う。もっと言ってしまえば、ポスト・オウム的な小説である。


 物語にはエホバの証人や、ヤマギシ会、そしてオウム真理教のような団体が登場し、それらの団体が持っているであろう問題が述べられ、間接的に審査にかけられる。そこで問題となるのは「その団体が与えている問題解決の方法は、極めて限定的なものである」ということだ。彼らがおこなう《治癒》は、汎用性を持たず、そして何らかの代償を払わなくてはならない。例えば、全財産を投げ出し、自らの主体的意思を投げ出せば、「あちら側の世界」へと入ることができる。たしかにそれは現実的な世界が生み出すしんどさから解放されるための手段として有効かもしれない。しかし、問題がないわけではない(主体的意思を持たない人間の幸福、とは果たして幸福なのか)。それらの団体は常にものごとの良い面しか伝えようとしない。『アンダーグラウンド』の続編『約束された場所で』で提示された疑念がここでも反復される。


 また、治癒をとりあげて作品を眺めてみると、この作品全体が治癒の物語と呼ぶこともできよう。おそらくそれは斎藤環がうんざりする類の典型的な「トラウマ話」と呼ぶことができる。このような物語は、言ってしまえば『リーサル・ウェポン』と同様だ。しかし、『1Q84』では治癒が最終的な救済として描かれることはない。そもそも主人公たちが受けた傷は、別なものによって埋められるだけで、彼らは「あちら側」に旅立つことなく、「こちら側」にとどまったまま、生きることを選択する――これはそもそも治癒とさえ呼べないかもしれない(起こってしまったことを打ち消して、問題が生じる前の状態に戻すことは不可能であることがここでは明示される)。


 とどまり続けることがこの作品のなかでは肯定されているのだろう。あちら側に足を踏み入れることなく、別な生き方を選択することの可能性が提示されている、と言っても良い。全面的かつ最終的な救済はありえない。しんどいことは再びやってくる。しかし、それを受容しなければ、また別な幸福の可能性もあり得ないものとなる。それは的を射た意見だし、同意もできる考え方だと思う。


 とても面白い本ではあるが、感動などとは無縁の本で、読んだあとにいくつもののしこりが残る(かなり嫌な気持ちになる部分も多い)。しかし、そのしこりもまた受容されなければならない種類のものであろう。ここに留まり続けることに同意するならば、問題を反復的に問い直し続けることは必要なことなのだ。