アレクサンドル・ソクーロフ監督作品『太陽』
先日、普段は見向きもしない文芸誌をパラパラとめくっていたら、蓮實重彦がアレクサンドル・ソクーロフの新作について書いていた。主演はなんとガリーナ・ヴィシネフスカヤだそうである。世界的というよりも、もはや歴史的なソプラノ歌手として(主にショスタコーヴィチ・ファンの間で)有名な彼女の演技は是非見ておきたいと思った。でも、これまで一本もソクーロフ作品を観ていなかったので予習の意味をかねて『太陽』を。
ロシア映画には「退屈」というイメージを、ろくに観たことがないくせに持っているのだが、この作品は異様な密室感と異様な緊張感が全編を支配していて、まったく退屈せず鑑賞できた。ものすごく面白かった。
音楽の使い方がかなり謎なのもとても興味深くて、気がつくと電波っぽいノイズやヒスノイズなどがずっと流れていたり、よくわからないタイミングで故ムスティラフ・ロストロポーヴィチ*1によるバッハの無伴奏チェロソナタが流れたり、と妙な不安を煽ってくる。バッハは断片的に用いられ、微分音を用いた弦楽器の不協和音のうえにバッハが乗ってくるところなどが鮮やかだった。が、テーマ曲風の音楽は打ち込みのオーケストラ感が明らかで、「いまどき、こんなのありかよ……」と気分が萎えるぐらい安い。「安さ」で言えば音楽に限らず、制作費がいくらだとか知らないけれども、金がかかっている感じはあまりない。
昭和60年生まれの私は、昭和天皇のことも、昭和のこともよく知らない。しかし、イッセー尾形によってヒロヒトの姿はそんな私でも「色々な方面からなにか言われなかったのだろうか?大丈夫だったのだろうか……?」と心配になるぐらいであった。天皇が神から人間になるまでを描いた作品なのだが、ここで天皇に与えられた神性は、ほとんど痴愚神のようである。あるいは、ギリシャ神話に登場する神々のような、やや混沌とした性格を持つ神のようでもある。ヒロヒトには(崇高な神でありながら、不貞を働く)ゼウスのような2面性が与えられているように思えた。なので神は神でも、キリスト教的な絶対神とはまるで違っている。
ここで描かれる「神的なもの」と「人間的なもの」を対比させれば、「いったい天皇という神はいかなる存在であったのか」と問うこともできよう。また、それは同時に「天皇という人間はいかなる存在であったのか」という問いにも転換可能である。さらに後者の問いかけは、天皇のみならず、もっと広く「人間とはいかなる存在であったのか」という問いにまで広がりをもたせることができそうだ。
これらの問いに対する答えは、疎開していた皇后(桃井かおり)と天皇が邂逅を果たすシーンのなかにもあれば(これは映画のクライマックスでもあるのだが、本当に素晴らしい)、執事(佐野史郎)と天皇とのやりとりのなかにあるようにも思われた。人間の理性という本性や、神の不可解さについて考えさせられるような映画である。
*1:ちなみにヴィシネフスカヤの夫である