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2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

青山真治監督作品『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』

エリ・エリ・レマ・サバクタニ 通常版 [DVD]
バップ (2006-07-26)
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 物語的ではなく、詩的な言語で綴られた映画を観たのは久しぶりだ、という思いがした。id:la-danseさんが「普遍的な映画」、「『ユリイカ』と並ぶ傑作」と評されたようには、決定的な言葉でこの映画を評価することが私にはできないが、とても優れた映画だ、とは思う。やはり、ここまで非説明的で、詩的で、音響的な映画を製作する青山真治という監督をリスペクトせざるを得ない。画面を装飾するサウンドトラックは、浅野忠信中原昌也が演奏する映画のなかの現実音と、映画の外で鳴る音楽とではっきりと性格付けが異なり、その双方が演出的に重要である点が素晴らしい。特に浅野忠信が弾くギター・ノイズと、救急車の走行音が重なるところなどに痺れてしまった。とても些細な点だけれども、この部分の演出は本当に素晴らしく、ここだけとってみても晩年のリュック・フェラーリの録音作品と肩を並べる出来だ、と言っても過言ではない。
 ただ、映画の外で鳴る音楽については、ギャヴィン・ブライアーズを思わせるメタリックなドローンや、調律が狂ったピアノの音などが、少し狙い過ぎと言えなくもない。メタリックなドローンや調律が狂ったピアノの音に対する意味づけが、なんとなく神秘的、あるいはなんとなくノスタルジックなものとして、いまやほぼ確定されているような気がし、やや安直な感じがしてしまう。浅野や中原が演奏しているというノイズの部分がとても良かったので、聴き劣りしてしまう気がした。ノイズの部分が生々しすぎる、というのもあるかもしれないけれども。これは私はとても好きだが、なんとも形容しがたい。
 中原昌也の演技は、決して上手いものではないのだが、映画の冒頭で浅野の後ろをついて歩くシーンの歩き姿から小物感というか、サンチョ・パンサ感に溢れていてとても良かった。「死ね!」という捨て台詞を残して自転車で走り去るところもすごく良い。大袈裟に言ってしまえば、この「死ね!」というセリフの青臭さは、とてもゴンブロヴィッチ的であり、中原昌也という作家性にも繋がっているように思う。
 「青山真治の撮る映画には断崖絶壁がよく出てくるなぁ」とぼんやり考える。青山真治作品において、宮崎あおいが断崖絶壁に立っているのを観るのはこれで2度目だ。この『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』では、一歩足を踏み出せば、死が待っている、そのような風景のなかで最終的に宮崎は生を選択する。そこで、どうして宮崎あおいが生に踏みとどまるのか、これについて私はよく読み取ることができない。生を選択する決定的な契機は劇中で語られることがない。しかし、宮崎を風呂のなかでも帽子を脱ぐことがない探偵と対比することによって、少し理解することができるように思った。
 役割を果たすとしばらくして帽子を捨て去り、死を選択する探偵。この探偵と宮崎の対比は、「生きる者」から「死す者」への変化、「生かされている者」から「生きる者」への変化の対比であろう。そこでは、生の目的性が問題となる。なぜ、私は生きているのか、この問題について決定的な回答をおこなうことは不可能である。誰もが、仮の目的性にしがみつきながら生きるしかない。この仮の目的性を失ったからこそ、探偵は死を選択するのだろう。そして、資産家の孫娘として生かされている宮崎あおいは、浅野が演奏する音楽の超自然的な力によって、この目的を探求する病を解消する。その解消が恒久的なものなのか、一時的なものなのかは劇中では語られない。が、映画上は「なぜだか分からないが、音楽が生を選択させている」ということになっている。この「なぜだか分からないが」という部分が、仮の目的性と対応していると思う。仮の目的性がなぜ仮の目的性となるのか。これについても「なぜだか分からないもの」であるから。