マクドナルドの笑顔;表情という普遍言語の発見
*1想像力を働かせながら話を進めていこう。
自動ドアをくぐって店内に入る。パティが焼ける匂いとポテトを油であげる匂いが入り混じった空気が鼻腔を刺激する。カウンターの前に立つ。「いらっしゃいませ」。向う側立つ男性、ないし女性はこちらに向かって笑顔を浮かべ言う。「ご注文をお伺いいたします」――我々がファストフード店を利用する際に、このような風景は既に日常的なものとなっているだろう。
ここでひとつ質問をさせてほしい。「想像のなかのあなたが入ったファストフード店はいったい、どのファストフード店だっただろうか?」。世界には数多のファストフード・フランチャイズが現存する。バーガーキング、ウェンディーズ、フレッシュネス・バーガー……そして最大王手、マクドナルド。私は予測する。あなたはきっと、想像の中で入ったお店はマクドナルドのものだっただろう、と。
実を言えば、私は冒頭に提示した想像力を働かせる文章の中で、想像のなかのマクドナルドにいきつくような誘導をおこなっている。さて、あなたはその誘導に気づくことができただろうか?――おそらく、あなたはあまりピンと来ていないはずだ。私の誘導はおそらく、あなたが想像した日常的な光景に紛れて込んでしまい、もはや気づくことができない状態になっている。つまり、自然になっているということだ。自然であるもの、それは自然であるあまり、私たちの視界には入ってこない――「自然さ」はものごとを隠蔽してしまう。
解答を述べておこう。私がおこなった誘導とは、「笑顔」のことである。数多あるファストフード・ブランドにおいて、マクドナルドほどこの笑顔を強調しているものは存在しない。「スマイル、ゼロ円(Smile Is Free)」――1940年にマクドナルド兄弟によって創業されたマクドナルド社は、このキャッチコピーを創業以来守り続けている。
しかし、どうして笑顔なのか。確かに笑顔は接客業における基本事項かもしれない。だが、マクドナルド社による笑顔の強調は、ときおり不自然に思えるほどだ(社員教育綱領においても最初に明文的指示がおこなわれされることからその力の入れようがうかがい知れる)。
ここまででやっと我々は問いのスタート地点に立つことができたと思う。もはや、我々はさきほどのように店員の笑顔を「自然に」受け取ることはできない。自然は不自然に転じ、隠蔽された問いがあらわれ始めた――なぜ、マクドナルドは笑顔なのか。それはいかなるものなのであろうか?
本論考において私は、いくつかのエピソードを紹介しながらこの謎について接近を試みてみたい。
■
1919年――第1次世界大戦が終わった年、シカゴの街に住む裕福な商人、ダグラス・マクドナルドの家においてふたりの赤ん坊が産声をあげる。この一卵性双生児の男の子2人は、それぞれイアンとマイケルと名づけられた。そしてこの兄弟こそが後に世界のファストフード界における覇者となる「マクドナルド」を創業するマクドナルド兄弟であった――という彼らの生誕にまつわる逸話はもはや常識的であり、いまさら言うべきことでもないだろう。
しかし、この「創業者たち」の父であるダグラス・マクドナルドが非常に優れた、かつ、高名なエスペランティストであったことは意外にも知られていない。しかし、エスペラント語――ルドヴィコ・ザメンホフによって開発された国際語、誰にでも学習することができ、話すことができるように志向された一種の普遍言語――がなぜこの父には必要だったのだろうか。これについてはシカゴという街について簡単に説明すればことが済んでしまう。
もとより商業都市として栄えた街、シカゴは多民族多人種都市といっても良い場所である。そこにはアフリカ系、スペイン系、イタリア系、ロシア系、ハンガリー系……とありとあらゆる民族・人種が住んでいた(マクドナルド家もその例に漏れず。名前が既に示している通り、彼らはアイルランド系の移民である)。こういった状況は、都市の人口の半分近くをユダヤ系が占めているというニューヨークとはまったく事情が異なっている――20世紀前半のシカゴのダウンタウンにはほとんど混沌と言っても良い民族・人種状況が存在していたのだ。
ストリートをひとつ跨げば、もはや異国。言語も文化も違う、といった状況の中で、優秀な商人であったダグラスがエスペラント語に目をつけたのは当然といえば当然であろう。彼の祖父の代から続くマクドナルド商会は、ダグラスに引き継がれるまでアイルランド系住民が住む地区内でわずか1店舗を持つという小さな企業に過ぎなかった。しかし、彼が会社内の公用語としてエスペラント語を用いたことによって、マクドナルド商会は規模を大きく拡大することに成功した。
彼の意思の根底には「どのような民族・人種にも優れた人材は存在する」という真にアメリカ的な平等主義が存在していたに違いない。彼は「エスペラント語を学ぶ意思があれば」という条件付きで、あらゆる人種から優れた人材を集めることができた(言語の問題は、万事解決されたのである)。これによって、マクドナルド商会はダグラスが社長就任以降たった10年間で店舗を15倍にも増やすことができたのだ。
■
読者の方々の幾人かはここまで読まれて「マクドナルドの『笑顔』と、父親の代のエスペラント語とに何の関連が?」と思われたかもしれない。安心して欲しい。ここからが本題だ。
1939年、マクドナルド商会に大きな事件が起こる――社長であるダグラス・マクドナルドがイタリア系移民の暴漢に刺殺されたのだ(事件の背景は現在も不明。事件の加害者であるオットリーノ・クレメンティは事件当時泥酔状態にあり『かっとなってやった。今では反省している』と述べたという説あり)。この事件が「創業者たち」(イアンとマイケル)に与えた影響は主に2つある。
まず1つ目――彼らが新たに事業を起こさなくてはいけなくなったこと。父、ダグラスは当時としてはかなり先駆的な思想をもっており、生前から世襲制による経営権の継承については否定的であった。そのため、ダグラスの死からわずか3日後にマクドナルド商会全社員(当時社員は300人にのぼっていた)による次期社長決定選挙が行われたのであるが、そこで選出されたのがダグラスの右腕と呼ばれた男、サミュエル・ゴールドバーグであった。
しかし、新社長となったゴールドバーグは「マクドナルド家の人間は今後、経営には一切口出しをさせない。また、社内への立ち入りも禁ずる」という非道な決定を下した。つまり、マクドナルド商会はひとりの強欲なユダヤ人によって体よく乗っ取られてしまったのだった(『ゴールドバーグには乗っ取りの意思はなかった。当時ユダヤ系コミュニティで流行していたカバラで、マクドナルド家の悪運を仄めかす結果が出されたため、会社のためを思い、あのような判断を下したのだ』という異説あり。しかし、当時のユダヤ系コミュニティでカバラが流行していたという事実は存在せず、実際は『モーセ様』*2が流行しているというところからこの異説については疑問が残る)。
当時、20歳になったばかりのイアンとマイケルは以上のような事情により、父の死亡により入ってきた保険金と遺産を元手に新たな出発をしなければいけなくなった。しかし、彼らにとってこの1つ目の衝撃は大したものではなかった。本当に深刻だったのは、2つ目の衝撃だったのだ。2つ目の衝撃――それは「エスペラント語の限界が見えてしまったこと」だった。
■
父の亡骸のまえでイアンとマイケルは「死ぬ直前の父が、暴漢に対してエスペラント語によって説得を試みた」という事実を明らかにされる――前述の通り、加害者のオットリーノ・クレメンティはイタリア系の移民であり、身なりも不潔な港の労働者だった(ダグラスはその容姿からクレメンティをアメリカにやってきたばかりの者だと推測したらしい。事実、彼は事件の1週間前にシカゴにやってきたばかりの新参者だった)。
ダグラスが「こいつには英語は通じないだろう」と想像したのは予想に難くない。だからエスペラント語による説得は生まれたのだ――「国際語なら。普遍言語なら……」という最後の望みがダグラスの心中にあったのだろう。しかし、結果は無駄であった。エスペランティストでないものに対しては、もちろんエスペラント語は伝わらない。国際語を志向する言語であっても、現実にはローカルな言語に他ならない。当たり前の事実の前に、ダグラスは没した。
それでは、言語に対する過信と誤解が生んだこの悲劇が兄弟にどのような影響を与えたのか?――3歳の誕生日からイアンとマイケルは、父よりエスペラント語のレッスンを受けていた。優秀な教師による熱心な指導により、兄弟は小学校に入学する時点で日常レベルでのエスペラント語をマスターするまでになっている。しかし、幼少の頃からの指導が生んだのは、そのような卓越した言語能力だけではない。父による教育は、言語に対する過信と誤解をも兄弟の内面に育てていたのである。「エスペラント語は誰にでも理解できる/通じる普遍言語(!)」という妄信は兄弟のなかで父以上に強いものとなっていた。
しかし、20歳のとき(このとき兄弟は商業レベルのエスペラント語も習得している)に起きた事件は、この妄信を無惨に打ち砕く。彼らの言語に対する自信とともに。
兄弟が興す新事業については、わずか半年で飲食店となることが決まっていた(おそらく、ゴールドバーグからの妨害がもっとも少なそうな業種を選んだのだろう)。記念すべき第1号店の名前も決まっている――「マクドナルド・ハンバーガー」と。もちろんそれまでの彼らに飲食店経営の経験があったはずもないが、反ゴールドバーグ派の元マクドナルド商会社員の後押しによって、事業開始の準備はほぼ完璧な状態まで整えられていた。
しかし、兄弟はなかなかスタートを決めることができないでいた――その理由は他でもない。父の死によって突きつけられたエスペラント語の限界、それに伴う自信の喪失だった。
彼らは悩んだ。「父はエスペラント語を武器にして、成功を収めた。しかし、もはや同じ手を使うことはできない(それでは父以上の成功は望めない)。ましてや客商売だ。誰が来店するか予想はできない。そこではエスペラント語などというローカル言語に過ぎないものは何の役にも立たない」と。
■
ある日、イアンとマイケルがいつものようにダウンタウンのフランス風カフェ「ボードレール」*3のテラスにて、今後の方針に関する打ち合わせを兼ねた昼食をとっているところに一人のイタリア系少女の花売りに出会った。その少女の両親は英語が不自由だったのだろう。彼女は2人の青年実業家(となる予定だったマクドナルド兄弟)に向かってたどたどしい英語で不安げにこう言った。「オジタン、オハナ、カッテくれマスか?」。2人は少女の表情に心を打たれ、「苦労している様子だね。買わせていただくよ」と言い、一輪のカーネーションと交換にお金を渡したという。少女は彼らの言葉は理解できなかったようだったが、彼女はたどたどしく「あリガとう」と感謝の言葉を述べると、にっこりと微笑んだ。つられて兄弟も微笑みを返した。
多忙を極めていた兄弟の心に少しばかりの安らぎが訪れる。そして、このとき兄弟は笑顔を「発見」することになるのだ――少女が兄弟のところを去っていくのを見送ったとき、兄であるイアンが叫んだ。「そうだ!あの微笑だ!!」。マイケルは兄の突然の叫びに驚いたが、すぐに兄の意図を掴んで「そうか!」という言葉を返した。
笑顔――それは言語ではない。しかし、言語と同等、またはそれ以上のコミュニケーションのひとつとして社会では扱われている。そこには文法が存在しないが、しかし、何がしかの意味を他者に伝えているというの発見がこのときなされたのだった。
イアンは、マクドナルド社の世界的な成功の後に出版した自叙伝『笑顔こそすべて*4』のなかでこのように綴っている。
「我々は、かつてエスペラント語にこだわり過ぎていたあまり、言語にばかりこだわり過ぎていた。しかし、もっと簡単で、文法もいらない、しかもローカルではなくグローバルな言語があることにあのとき気がついた。表情。それはほとんどどの世界でも共通のコミュニケーションだ。そして笑顔。これさえあれば、どんなお客さんでも気分が悪くなったりしない。非言語だが、普遍的な言語のようなものだ。」
■
そして1940年になる。彼らは「スマイル、ゼロ円(Smile Is Free)」というキャッチコピー*5を武器にマクドナルド第一号店をシカゴのダウンタウンに開店させた。その後のマクドナルド社の躍進は読者の方々も知っての通りである。
(ジョーンズ・A・ワート:1948年生まれ。アメリカ合衆国オレゴン州出身。心理学博士。現代乙女学、アメリカ大衆文化論などが専門)
*1:この文章は、ジョーンズ・A・ワート博士による論考を現代芸術研究所発行による批評誌『孑孑(ぼうふら)』のために訳出したものである。編集者の許可を得てここに転載する
*2:日本では『こっくりさん』と呼ばれるコインを用いた交霊術の一種
*3:この店は現在もシカゴ市内に存在する
*4:邦訳なし。原題“All Need Is Smile”
*5:ワートは本論考の冒頭で、このコピーを創業以来使用していると記述しているが、実際には1940年代後半から50年代後半にかけて『赤狩り』対策のためにこのコピーを一旦取下げている。当時『Free』という言葉はまっさきに『共産主義的』と疑いをかけられる風潮があった。また、1960年代はヒッピー・ムーヴメントを受けたPTAから『Free』という言葉に対しての抗議を受け『Smile Is Good』に一時的に変更されている