sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

フライング・マンティス号最後の出走

 初夏の夕暮れにジィジィと気の早い蝉時雨に混じって聞こえてくる笛の音と太鼓の鼓動は、祭の季節が近いことを教えてくれる。それは隣町の子ども会に所属する少年少女たちが来るべき晴れの日の舞台に向けて練習を重ねる音だった。東北の人は祭好きな人種だ、というのは大体において正しい。規模の差はあれどどこの地区にもそれなりに歴史のある祭が存在し、その地区に住む人たちは幼少の頃から儀礼のように体へと祭を刷り込まれるのだ。そうであるならば「東北の人は祭好きな人種だ」というのは当然な話になってくる。ただ、私が生まれた福島県福島市という土地には他の県にあるような観光客も呼べるぐらい大規模な祭は存在しない。あるのはあくまでローカル向けの祭だけである。とはいえ、その熱がねぷたや花笠に劣るものとは思わない。
 福島市において最も大きな祭といえばわらじ祭だった。煌びやかな神輿の代わりに職人によって藁で編まれた全長15メートルにおよぶ巨大な大わらじが男たちによって担がれ、街を練り歩いた後に市のちょうどヘソのあたりに位置する信夫山の頂にある神社へと奉納されるこの祭はおよそ300年の歴史を持つと言われ、その起源は会津藩第3代当主、松平恒則編纂による『常磐今昔物語集』にも記載がある。その文献によれば、祭の起源となった伝承は祭の発祥よりもはるか昔から語り継がれてきたものらしく、日本書紀で想定されたような原始の時代にまで話は遡る――雲をつくような大巨人(天上人)“サバコユノオオキミ”が蝦夷の地に巣食う魔物を退治する道中、わらじを脱いで山に腰掛け休憩を取ろうとした途端、サバコユノオオキミの重さに山の地盤が耐え切れず、ぽっかりと大きな穴が出来てしまい、その穴こそが後に福島盆地と呼ばれる土地となる……これが伝承の大枠となる話だが、わらじ祭はその大巨人、サバコユノオオキミが脱いだまま忘れて行ったわらじを天上へと送り返す儀式なのだろう。豊穣なる土地を作りたもうた天上人への感謝の意もそこには込められているに違いない。
 しかし、いまやこの祭の大きな盛り上がりは、メインイベントである大わらじの奉納に代わって、農協主催の草刈機レースによって占められていた。「大わらじ記念」という名前を冠されたこのレースには専業兼業を問わず市内の農家が数多く参加する。そして、おのおのが思い思いに改良を加えたレース用の草刈機に搭乗して、市街地に用意された1.5キロあまりのコースを疾走するのだった。優勝者には最新のスプレーヤーや農薬・肥料の類がおよそ1年分送られた。もっとも、出場者たちが求めたのはそういった実益ではない――名誉だ。消防団、青年会、勉強会……レースの優勝者たちは偏在する小さな寄り合いのなかで向こう一年間はもてはやされることを約束される。
「いや、マサヨシヤンのゼの草刈機、はえごど、はえごど」
「びっくりしたない。ウヂのどは全然モノがちげんだあ」
「どやったらあだスピード出るよになんだい?」
 同じ農家の男からかけられる言葉は蜜よりも甘い。皆、その悦びを味わおうとしていた――夏の暑い盛り、レースの直前の時期になるとこの土地の桃畑が雑草だらけになるのは、レース用の草刈機の最終調整で皆忙しく、草刈どころの話ではなくなってしまうからである。この時期、我が家の桃畑も父のために打ち捨てられたように青い草が生い茂った。私の父も、蜜よりも甘い名誉の魅力にとり憑かれた男の一人だったのだ。
 祭が近づいてくると父は会社の休みの日になれば、必ず物に物置に篭った。もちろんそれは草刈機の改良に勤しむためだ。そして、兼業であるために普段はスーツを着、会社へと出勤していく父の指はホワイトカラーの会社員にあるまじき状態へとなっていった。草刈機のエンジンやシャフト、ギアボックスを分解するとき、父の爪と指の間には黒い機械油が汚く入り込み、指紋のなかに染みこんでいく。日に日に父の指は自動車整備工だった時代に戻っていくようだった。
「はだげに草、ぼうぼだがら、シルバ敷けね」
 父が草刈機を占有している間、祖母は口癖のようにその言葉を繰返し、3人目の娘を産んだときから太り始め今では脂の塊のようになった体を震わせながら物置のまわりをぐるぐると歩き回る様子は何らかの儀式のように思えた。母は冷房も備わっていないい蒸した物置の中で作業着と手を汚し続け、食事のときにしか家に戻ってこない父を酔狂すぎると決め付け、半ば無視して過ごした。寡黙な祖父は何も言わなかった(弟は、当時何をしていたんだろう?)。父へ理解を示そうとしたのは、私だけだった。
「もっとパワーがでるようにギア比を変えて見たら良いんじゃない?ほら、コイツだって随分古い型だし、そうでもしなきゃ新型に乗ってくるヤツに適わないよ」
「良いんだ。老いぼれにだって良いところはある。まだまだコイツだって新型になんか負けないさ。でも、試してみる価値はあるかもな――おい、そこの6番のレンチ取ってくれ」
 フライング・マンティス号。ナリタブライアンを輩出するよりずっと昔、まだ早田牧場桑折町に牧場を持っていた頃に生まれた悲劇の競走馬の名を冠した、共立RMS58、農業用機械はどれも朱色のカラーリングであることを気に食わなかった父が真っ青に染め直したその骨董品寸前の機械を囲み、私と父は食事に呼ばれない限りはずっと作業に打ち込んだものだ。
「そのままエンジンを500回転で維持させてくれ」
「やってみる」
 私たちは病気の恋人を世話するようにフライング・マンティス号を扱った。新型よりもいくぶん大ぶりで小回りは効かなかったものの、排ガス規制前に生産された高出力/高排気型のエンジンを載せた“彼女”はどんな悪路でも走ってみせた。少し気まぐれなところを除けば、最高のじゃじゃ馬だった。湯野に14ヘクタールの土地を持つ齋藤藤和の存在さえなければ、父はレースの優勝者の名誉に預かることができたはずだ。専業の桃農園を営み、観光客を呼び込むことによって夏の3ヶ月だけで1000万は稼ぐと噂された齋藤はその豊富な資金を利用して農協の職員を買収し、レースのレギュレーション――出場規則13.エンジンを載せかえてはいけない――を無視した草刈機を出場させていたのだ。通常の草刈機と比較して1.5倍の排気量を誇るヤマハ製のエンジンに邪悪な唸り声をあげさせ、齋藤は長年「大わらじ記念」の優勝者の座に居座り続けていた。
「今年は勝てるかな?勝てるよね?」
「今年は勝つさ。ベアリングも新しいのに変えたし、最近、エンジンの調子も悪くないからな」
 父は私に何度も勝利を約束した。しかし、その約束が果たされるには2000年の夏、20世紀最後の「大わらじ記念」の夜まで待たなければならなかった。その年のレースのことは、よく覚えている――豪農が駆る草刈機が小さな兼業農家の草刈機に追い抜かれた瞬間に予選で敗れたレースの出場者たちがあげた感嘆の声を、表彰台にあがった父の誇らしげな顔と頬を伝う涙を、急いで階段を駆け上ったときのような胸の高鳴りを、私は覚えている。しかし、肝心なレースの内容についての記憶はスッポリと抜け落ちている。
 そして、その年のレースが父とフライング・マンティス号の最後のレースになった。父が私との約束を果たしたと次の日、フライング・マンティス号のエンジンはうんともすんとも言わなくなってしまったのだ。役目を終えた老兵が静かに息を引き取るようにして動かなくなった彼女は、すぐに廃車にされてしまった。
「はだげに草、ぼうぼだがら、シルバ敷けね」
 フライング・マンティス号の死を知った祖母はそう言い、次の年から父は普通の会社員へと戻った。