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2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

ホルヘ・フランコ『ロサリオの鋏』(田村さと子訳)

 コロンビアの作家、ホルヘ・フランコの『ロサリオの鋏』を読んだ。1999年に発表されたこの小説は、コロンビア国内でガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』以来のベストセラーとなり、ホルヘ・フランコは「第二のガルシア=マルケス」とまで謳われているそうだ(ペルーのマリオ・バルガス=リョサもこの作品について絶賛している)。いわゆる「マジック・リアリズム」風の作品ではないのだが、たしかにガルシア=マルケスの作品と通ずる点もあり、とても面白く読めた。

キスの最中に、至近距離から撃たれた銃弾をまともにくらったロサリオは、恋の痛みと死の痛みとを取り違えてしまった。

 小説は、銃撃されたロサリオが語り手によって病院に運び込まれるところからはじまり(この書き出し部分は思わず痺れてしまう文句だ)、待合室で彼女を待ち続ける語り手の回想によって進んでいく。ロサリオと、語り手の親友であり、ロサリオの恋人エミリオ、そして語り手の間にかつて存在した三角関係がメインに語られる。
 8歳のときに自分を強姦した相手(母親の恋人……)の局部に鋏でもって復讐を遂げた、という逸話から“ティヘーラス(鋏)”とあだ名され、スラム生まれの出自をマフィアの愛人兼殺し屋となることで乗り越えたロサリオは、暴力と美貌と謎を併せ持ったファムファタールとして描かれているのだが、語り手には手に入れることのできない存在となっている。永遠に憧憬の対象でしかない「運命の女」と、それを手に入れられれば全ての望みが適うような幻想に陥った語り手の激情。これにはかなり胸を打たれてしまう。
 考えてみれば、とてもシンプルでありきたりな物語なのかもしれない。しかし、実際に読んでみると簡単に片付けることができない作品だと思う。その要因には「1980年代末のコロンビア第二の都市、メデジン」という舞台設定にあるだろう。この本の「訳者あとがき」には、日本に住んでいると想像もできないような当時の状況の解説がある。

同国では70年代に麻薬密売組織が台頭してきたが、80年代のコカイン・ブームによってパブロ・エスコバルを最高幹部とする密輸組織メデジン・カルテルが急激に力を強めた。そして膨大なコカイン・マネーを背景にエスコバルを中心とするカルテルが国内の政治・社会生活に大きな影響力をもつようになった。(中略)コロンビア政府は麻薬撲滅政策を強化したが、これに反発するマフィアのテロが激化して89〜90年に「麻薬戦争」が起こっている。メデジンでは6トンものダイナマイトを積んだバスが公共施設に突っ込んだり、ショッピング・モールで爆弾が爆発するような事件が連日のように起こり、人びとを恐怖の底に落としいれた。

 巨大な暴力がひしめくメデジンは、まさに「異国」というか「異世界」のようにさえ感じる。そこでは日常的に殺しがおこなわれ、爆発音が鳴り響く。そのような状況だからこそ「ロマンティック・ラヴ・イデオロギーに毒された男の独白」のような物語にある種の神話性といったベールが付与されているように思われた。
 ただ、もちろんこの作品の魅力がそこだけにあるというわけではない。何より素晴らしいと思わされたのは、ロサリオが「強い女」でありながら「深い傷を負った女」という風に描かれている点である。
 語り手がロサリオに惹かれている理由には、その傷も含まれている。回想の中で、語り手は何度も彼女を癒そうと試みるのだが、その努力はいつも失望に変わる。私は、共感を抱きながら本を読むことがあまりないのだが、この語り手の失望は珍しく共感、というか個人的な経験と繋がって読めてしまった。一般的に理解してもらえる話ではないかもしれないが「傷を持つ女性に思いを寄せることのしんどさ」みたいなものをリアルに感じとれる(しかし、付き合っててしんどい女性が色んな意味で『イイ女』であることが多いのは何故だろう)。
 また「ロサリオの恋人であるエミリオはその傷を理解しようとしない。それなのに何故、俺ではなくアイツなのか」というような嫉妬もかなり読んでいてヒリヒリするような感じがした。こういう小説もたまには悪くない。