ヴィトルド・ゴンブロヴィッチ『コスモス』(工藤幸雄訳)
コスモス―他 (東欧の文学)posted with amazlet at 08.07.21
「面白かった!」とまず一言。そして「狂ってる!」と次に一言。「ゴンブロヴィッチはすごいよ……」と聞いていたが、こんなに恐ろしい作家だったとは……。最初は、切れ切れと続く奇妙な文体が目に付いたけれど、内容は文体以上にキチガイ染みている、というか、ほぼキチガイの小説である。探偵小説やミステリといった体裁を一応とりつつも、ほぼ全体に渡って主人公、ヴィトルド(この登場人物にどれだけ作家本人が重ねられているのかはよくわからない)の意識の流れに沿って物語は進み、唐突に哲学的な問いかけが挿入されたり、かなりシュールな場面展開が繰り広げられたりとかなり込み入った内容となっている。
すさまじいのはヴィトルドによる「関係性」に対してのパラノイアであろう。冒頭、ワルシャワから訳あって友人と連れ添い田舎町へと逃げてきたヴィトルドは、ちょうど良い下宿を探している途中、木に「スズメの死骸が首吊りになっている」という異様な光景を目にする。誰がなんのためにこんなことを……このスズメが物語を推進させるひとつのマクガフィンとなるのだが、これがヴィトルドによって「何か」と結び付けられることによって、物語には混沌が訪れる。
たとえば、下宿で遣われている下女の醜いキズが残った唇、これがスズメと関係があるのではないか?――とヴィトルドは考える。この妄執によって、探偵小説としての物語はほぼ破綻としてしまっているといいのだが、面白いのは「スズメと唇が関係がないとは言い切れない」という可能性にヴィトルドがとりつかれていく点だろう。たしかに、物語上スズメと唇には「関係がない」と完全に言い切ることができない。あらゆる可能性は残されている。
ぼくのこの物語の続きを語るのはむずかしい。だいいちぼくは知らない、これは物語なのか。いくつかの分子の絶えざる……結合および分裂……これをしも物語と名づけるのは無理である……
『コスモス』においてあらゆる可能性がヴィトルドの前にあらわれ、そして、それらは最後まで打ち消されることなくヴィトルドを悩ませ続けることとなる。通常、論理的な思考の積み重ねによってある物語は推進される(犯人は○○という理由において、Aではない、というような)のだとしたら、ここではあらゆる論理的な分子が進むことなく、打ち消されることなく物語に蓄積されていく。この反-物語的な過程を物語として成立させている点がこの小説の斬新な点なのだろう。蓄積が崩壊へと向かって物語にカタストロフが訪れているのも見事な書き方だと言える。
トマス・ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』から、パラノイア的な部分を抽出したような……そういう小説が読みたい、という方には是非オススメしたくなる作品だった。