sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

経済システムのサブシステムとしての……

http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20080502/p2#c
 こちらのエントリのコメント欄が長くなってきたので新たなエントリに書き起こす。まず、id:noflyingcircusさんへの返信から。noflyingcircusさんは「Geheimagentさんの場合は、そこでクラシックは独立し至高のものとなっているのか?全体を宝玉混合を楽しんでいるのか?にとって私の筆の滑らせ方が変わってくるのですが(どのアニメは認めているか?によっても複雑になってくるし)」という問いかけをされている。
 これに対して(ここでの『独立』とは、おそらく『経済システムからの独立』を意味しているように思われる)。私の立場を単純に説明させていただくならば、おそらく前者に近いところにいる。クラシックというジャンルに限らないし、音楽にだけではなく小説でも、アニメでも、マンガでも、あらゆる「作品の鑑賞」において、私は「経済システム云々」といった作品の外部にあるものを考慮しない(つもり)でいる。
 そうであるなら、なぜ「芸術システムの経済システムのサブシステム化」を問題としなくてはならないのか。しかし、これを説明する前に、この見慣れない言葉――「芸術システムの経済システムのサブシステム化」――が何を指し示すのかを説明しておいたほうが良いかもしれない。
 (前エントリのコメント欄でも書いているが)この現象の分かりやすい例をあげると「売れないものは切り捨て」または「売れるものしか市場に出さない」ということになる。芸術システムと経済システムの関係性が、後者にとってあまりに優位なものとなり、前者が後者のサブシステムとして機能するようになった場合、これらは自明な結果として現れる。経済システムの目的――「より多くの利益をあげること」――にそぐわないものは、システム内で行われるおこなわれない。
 本来であれば「経済システムの芸術システムのサブシステム化」という真逆の現象もおこらなくてはいけない(いまいち『芸術システムの目的が何なのか』については言い切ることができないけれども)。しかし、経済システムがあまりに強すぎるため、その逆転はおこらない。付記するならば、これは芸術システムにおいて感じられる傾向ではなく、社会におけるほかのシステムにおいても感じられる(例えば、報道システム。もはやどこにもジャーナリズムは存在しない)。
 「売れるものしか好きじゃない」というならば、これでもまったく問題がないのだが、残念ながら私はそのようなタイプの人間ではない(誤解がないように言っておくと、私は売れるもの『も』好きである)。なので、「売れるものしか」という状況は、単純に息苦しいし、不便なのである。数だけはどこにでもあるようになったHMVやタワーレコード。これらの大型ショップにも売れるものしか置いていない(そして、それは『どこに行っても同じものしか売っていない』という状況を作り出す)。欲しいものが実店舗で手に入らない(ネットでしか買えない)。
 創作する側についても、この息苦しさは問題になっているように思う――作りたくても、売れないから(利益をあげられないから)、作れない、という風に。これは「作っていないから、受け手も受け取ることはできない」という忌まわしい悪循環を生んでいる。
 「『シュトックハウゼンを聴け!』だとか『国書刊行会の本を読め!』だとか啓蒙を行わなくてはならない」という話ではないし「『メジャーのレコード会社に火をつけろ!』だとか『大手出版社を爆破せよ!』だとか運動をしなきゃダメだ」という話でもない。単純に「マイナーなもの、売れないものが好きな人は、状況をもうちょっと意識しなくてはいけないのでは?」という話である。
 もはや、ぼんやりと《コンタクテ》を聴ける状況ではないのだ(出版界はまだマシかも。ピンチョン全集だとか、日本中で何人が喜ぶんだ?っていう企画もバンバンでてるし)。