sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

 昨日書いたエントリに「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。
 「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。
 これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。
 もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。
 もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげられるのは文化、というか儀礼的なものがあるかもしれない。音楽学者、岡田暁生による『西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 』にはこんな記述がある――「この時代(19世紀末〜20世紀初頭)にあって『交響曲を演奏する/聴く』とは、ほとんど一つの宗教体験だった」(P.192)。19世紀末〜20世紀初頭といえば、現代においてクラシックと呼ばれる西洋音楽が最もさかんに演奏され、円熟に達した時代である。そこで設定された崇高な体験の場としてのコンサートという場はいまだに意味を失っていないのかもしれない(『パルテノン多摩』というネーミングからもそれは察することができよう)。
 こうなると私のようなタイプの人は、みんな「クラシック教(狂)信者」ということになる。もし「クラシック好きな人ってなんでそこまで厳しくするの?」と不思議に思う方は、その怒りを「俺らがマジメに神さまにお祈りしてるのに、ガサゴソやりやがって!」的に解釈していただければ良い。それを「バカみたい」と嘲笑されても構わないのだけれど、やはり少しは気を使って欲しいというのが本音である。同じチケット代金を払って、一方は気楽に楽しみ、一方は不快な気持ちになりながら音楽を聴かなきゃいけない、っていうのはなんだか「マジメな人ほど損をする」みたいで悔しい。