sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

コンサートで聞いた赤の他人の雑談より

 ベレゾフスキーのコンサート、さすがにチケット2000円でしかも郊外にある会場というだけあって、普段足を踏み入れるようなコンサートでは見かけないようなお客さんがたくさん見受けられました。例えば、ロビーで「明日カラオケのレッスンがあってよぉ!」と仲間に話しかける、明らかについさっきカップ酒を飲んできたであろう……と推測できるような臭いを放つオッサンとか。
 強烈だったのは私の真後ろに座っていたオバサン3人組で、この素敵な淑女たちは開演前から「誰それの息子さんは○○につとめててね……」だの「ウチの息子も大学に入ってね……」だの、ローカルなゴシップ会話で大盛り上がり。そういう下劣極まりない会話をしつつも、言葉遣いはマンガにでてくるみたいな「○○ですわよ」というバカ丁寧な口調だったので、どんだけ上品な淑女なのだろうと後ろを振り向いたら、全員“太陽王”ことルイ14世肖像画みたいな髪型してた。もっと現代的な喩えをすれば、まるっきりイングヴェイ(結論として、どうやら多摩市の行政は絶対王政で、しかも速弾きが流行ってるらしい)。
 この淑女3人のルックスも衝撃的でしたが、もっと驚いたのが彼女らの一人が休憩後に戻ってきて「そうそう、ウチにあった《熱情》のレコードは、ヴァン・クライバーンだったわ。もしかしたら、ホロヴィッツかもしれないけれど」という言葉を放ったことでした。「クラシック=教養」として音楽を消費し、まるでコンサートのチケットへ払う出費がリヴィングに並べ置かれる百科事典と同等である……という風に見て取れてしまうようなルイ14世レディの口から、まさかクライバーンの名前が出てくるとは思いませんでしたし、また、彼女らの口からホロヴィッツの名前が出てくるということは、それだけこのピアニストに人気が集まっていたという事実を証明するものでしょう。
 どちらにせよ「あら、今知ったけど今日は《熱情》をやるのね。ウチの息子が練習してたけど、どんな曲か忘れちゃったわ」「聴けば思い出すわよ、きっと」→終演後「やっぱりウチの息子の演奏とは違うわー」という感想を交換するような、言ってみれば音楽に対してその程度の思い入れしか持たないオバサン連中がクライバーンやホロヴィッツの名前を記憶している、ということは、かつて彼らがそれだけの人にも記憶されるようなポピュラリティを得ていたことを伝えるものでした。
 果たして、そこまでのポピュラリティを得ている演奏家が現代においても尚存在するか?――これは少し問題になる点かもしれません。ポリーニアバド?ロストロはもう死んだし、小澤征爾は日本人ってだけで「うーん……」って感じだし……という感じで思い当たりません。巨匠っぽさで言えば、スクロヴァチェフスキなんかかなり良い線いってますが、いかんせんマニアックだ。
 正直、ホロヴィッツなんかが特別な存在だったのかもしれませんが、逆にそういう存在がいないことによって、ルイ14世みたいなおばちゃんがコンサートホールにやってくる(上品ぶっていてもコンサートマナーはすこぶる悪い)という状態が回避されるわけで、それは逆に私にとっては幸福なのかな、とも思いますけれど。別にクラシックじゃなくても素晴らしい音楽はたくさんあるわけで、みんながみんなクラシック好きじゃなきゃいけないとか、そんな風に思わないしなぁ。
 完全にグチ口調になってきたんで書いてしまうけれど、月一ぐらいのペースで演奏会にいくようになってまず思うのは「どうして音楽だけを聴けないのか」というのがあります。演奏が始まって5分ぐらい経つと、あちらこちらでパンフレットなどをペラペラとめくる音がする。めくってるほうは「平気平気」と思っているかもしれないけれど、実はこの音結構ホールに響いています(響いてなくても、楽器の音と紙をめくる音の倍音構成が全然違うせいで、かなりはっきりと聴こえる状態にある、と思う)。これはかなりウザい。はっきり言って迷惑です。そんなにすぐ飽きるなら、家でCD聴きながら本でも読めば良い、それで充分だろ、って思う。
 音に飽きて紙をペラペラやるぐらいなら、会場の外でCD買って帰って、家でそれ聴きながら思う存分ペラペラやってください(余ったチケットは、音楽に餓えてる学生にあげてやれば良いと思う)……ものすごく極論だけれど、同じお金払って隣でペラペラやられると溜まったものではないです。今回は2000円だったし、とか思えるからまだマシだけど、10000円以上払った席の隣とかだと1ペラ音の度に1呪詛のまなざしぐらいになります。