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2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

マリオ・バルガス=リョサ『楽園への道』

楽園への道 (世界文学全集 1-2) (世界文学全集 1-2)
マリオ・バルガス=リョサ 田村さと子
河出書房新社 (2008/01/10)
売り上げランキング: 2844

 ペルーの作家、マリオ・バルガス=リョサの『楽園への道』を読む。池澤夏樹の個人編集による河出書房新社の「世界文学全集」の第二巻として刊行された作品であるが、本作が邦訳で公開されたのはこれが初めて。既に大作家となっているリョサの作品とはいえ、そのような「まだ読まれていない作品」を「全集」のなかに組み込んだ池澤夏樹の仕事(本当のところ、どこまで関わっているかはわからないが)は素晴らしい……と思える小説だった。面白かった!
 リョサといえば1990年にペルーの大統領選挙に出馬し、アルベルト・フジモリに敗れた、という経歴も知られている。『楽園への道』はその後、2003年に発表された。このとき、彼は67歳。小説にはその当時の年齢が信じられないほどのバイタリティーが溢れている(どこかの都知事のように作家としてはほとんど死んだ存在ではない、というのが偉い)。
 物語は、画家であるポール・ゴーギャンとその祖母であったフローラ・トリスタンの波乱に満ちた生涯を追う形で進んでいく(体裁は、2つの物語が章が交互する形で展開される『ユリシーズ』的なもの)。ゴーギャンの祖母が、シャルル・フーリエの弟子の社会主義運動家だったことを私はこの作品を読むまで知らなかったが、彼女が抱いた「労働者も女性も平等に幸福に暮らすことの出来る社会の創立」という夢と、ゴーギャンの「ヨーロッパの文化に汚されていない南方の原始的文化」という幻想はタイトルにある「楽園」という言葉によって有機的に連携し、フィードバックしていく……という構成の巧みさはとても刺激的だった。
 ポールとフローラはどちらも「楽園への道」を目指す、とはいえ、ふたりは互いにまったく相容れない部分が存在する。孫が「マオリ人の粗野で性的な野蛮さ」のなかに芸術の理想を見出し、(梅毒にかかりながらも)マオリ人と性的な関係を持ち続け創作に励んだのに対して、祖母は正反対に「理性の名の下に性を慎まなくてはいけない」という思想を労働者たちに説いていく。
 正反対なこれらふたつの思想がぶつかりあうことは小説の中で生じない。単に対置させられているだけなのだが、これは演出の意味だけではなく、風刺的な意味合いもこめられているように思う。この作品ではたびたび、主人公に語りかけることで語り手の存在が物語のなかに介入する。語り手=現代に生きる作家(そしてその背後にいる読者)という風にみれば、ポールとフローラによって相対化される対象のなかに我々が含まれているようにも考えられる。孫と祖母のラディカルな性観念によって、我々の性の「おかしさ」も揺り動かされているのだ。
 個人的に面白く感じたのはフローラの物語のほうである。彼女は晩年を彼女の社会主義思想を広めるためのパンフレット作り(彼女の著作のいくつかは日本語で読むことができる)と、フランス各地を遊説し直接労働者に語りかけ、そこで労働組合を結成させる、という活動に勤しんでいる。彼女の物語においては、劣悪な労働者環境のなかで搾取を行い続ける資本家とことあるごとに対立し、そのたびに資本家たちがひどい罵詈雑言を浴びせられる、というシークエンスが反復され、それがちょっとした笑いどころとして設けられている。しかし、面白かったのはそこだけではない。
 私が一番興味深く読めたのは、資本家を激しく非難するフローラこそが小説中で資本主義的なメンタリティを最も内包する存在であるように読めることだった。原因不明の病苦に悩みながらも彼女は夢の実現のために活動を続ける(もちろんひどく貧しい状態の中での活動である)。作家はそのような状況のなかで彼女にこのような言葉をつぶやかせる。

ああ、神さま、神さま、もしあなたが本当にいらっしゃるのなら、この涙の谷の悪に終止符を打つ労働組合を世界中で始動させるまえに、フローラ・トリスタンの命をお召しになるような、そんな不当なことはできないはずです。<あおと五年、あと八年、生かしてください。それで十分です、神さま>

 ブルジョワによって支配される体制と結託する教会もフローラにとって嫌悪の対象だった。これは教会というシステムを介しない純粋な祈りだ。この切実さが小説の美しい部分を作り出しているのだが、やはり私にはヴェーバーを思い起こさずにはいられない箇所だった。彼女の必死の努力もむなしく、労働者のユートピアが設立された、という事実は歴史上存在していないことを我々は知っている(ユートピアを標榜して生まれたのは、狂信的なカルトか自由を奪う圧政だけだった)。ここにはなにか、近代の過酷さ/しんどさみたいなものを感じてしまう。モダンであることは茨の道なのだろう。
210px-Flora_Tristan
(ちなみに肖像画に描かれたフローラ・トリスタンは美人)