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2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

早稲田大学交響楽団第183回定期演奏会@東京芸術劇場

 早稲田大学交響楽団(通称、ワセオケ)の定期演奏会に高校生のときに参加していた地元のジュニア・オーケストラの後輩が出るというので、同じオケに入っていた高校の同級生と一緒に聴きに行った。ワセオケは、慶応大学のワグネル・ソサィエティ、東京大学交響楽団と並び都内でトップ・クラスの実力を誇る大学オーケストラとしてアマチュア・オーケストラ界では有名な団体なのだが実際に聴きに行くのは初めて。

J.S.バッハシェーンベルク前奏曲とフーガ 変ホ長調より前奏曲
ブラームス交響曲第3番 へ長調 作品90
ワーグナー/歌劇《ローエングリン》より抜粋
ワーグナー/楽劇《神々の黄昏》より抜粋

 本日のプログラムはこんな感じ。ブラームスワーグナーという後期ロマン派の大物をとりあげつつ、ドイツ-オーストリア音楽の父的存在であるバッハの作品をその末裔ともいうべきシェーンベルクの編曲で送る――という一晩で18世紀から20世紀前半のドイツ-オーストリア音楽史を俯瞰するような気合の入った内容である。こういうコンセプチュアルなプログラムを組んでくるあたりに楽団の質の高さが伺えるのだが、演奏もやはり高水準だった。
 「アマチュア離れしている」との噂はかねがね耳にしていたものの「学生にこのレベルの音楽ができるのか……」と驚いてしまった。どのパートも腕達者揃いで「大きな穴」と呼べるところがない、という時点ですごいのだが(アマチュア・オケにおいてそのような各パートに均質さをもたせることはかなり難しい。とくにホルン)、これが楽団の規模のなせる技といったところだろうか。実質的なメイン曲であるブラームスは、大事なところで弦楽器が裏拍を待ちきれず突っ込みがち、というアマチュアらしさが垣間見れる箇所がいくつかあったが、鳥肌が立つぐらい素晴らしい演奏であったと思う。特に第4楽章は良かった。
 あと、トランペットにひとり「何者だ!テメエ!楽器も上手くて、高学歴って反則だぞ、コラ!」という感じの人がいて、その人が目立つフレーズを吹くたびに世界が変わる感じがした。ブラボー、おお、ブラボー、である。
 残念だったのは、指揮者の解釈が微妙すぎた、という点ぐらいだろうか。バッハ、ブラームスでは一般的な「硬質な音楽」のイメージとはちがって、柔らかく甘い音楽として演奏しようとするところがいくつか認められた。このような解釈の方法について「こうでなければならない」というファシズムは持ち合わせていないけれども、どうもやりたいことと実際の演奏との間に大きな落差があったのでは、と思う。
 一言で言えば統合不全的な解釈。特にコントラバスパートが終始ゴリゴリと力強く引き続けさせたこと、また何人かの腕達者な木管楽器奏者がオーケストラの和を乱すぐらい歌おうとしていたこと、これが統合不全感をより一層強く感じさせた。ワーグナーに関しては、やりたいことがなんなのかすらわからないほど散漫。聴かせる実力を持っているオケだったので余計にもったいなかったと思う。
 アマチュア・オケを振る指揮者にこんなことを言う人がよくいる――「これはあなた方の演奏会なので、私は主役ではありません。なのであなた方の意見を大事にしていくつもりです。好きなように演奏してください。楽しくやりましょう。音を楽しむ、と書いて音楽なんですから云々」。この方針は、基本的には正しい。アマチュアの音楽家は、自分が楽しむために自主的に練習をおこない、演奏会を主催している。指揮者が全面的にイニシアチブをとり、団員にある音楽を強制する、ということはあまり好ましい事態ではない。また「好きなように演奏する」、これができるということはアマチュアにとってはとても楽しいことだと思う。
 しかし、楽しく音楽をやることと、音(楽)を楽しむこととは少し話が違ってくる。楽しく音楽をやること、ではなく、良い音楽をやることのほうが音楽を楽しむことに対して直接的に絡んでくるのではないだろうか、と個人的には思うのである。この考えからすれば必然的に、団員に好き勝手やらせるタイプの指揮者は「音を楽しませること」からズレた仕事をしていることになる(仕事を放棄している、とさえ言えるかもしれない)。
 この日の指揮者は、そういうタイプの人に思われた。実際、どんな指導をしていたのか想像するしかないけれど、もっと厳しくやったほうが良かったんじゃないか、演奏技術が高いというだけでS席3500円のチケットの対価に見合う音楽はできてなかったんじゃないか、などと偉そうに言ってみたくなる。
 (実際には貰ったチケットで聴きに行ったので「結構良いモノが聴けたなぁ」とちょっとホクホク顔で帰れたので良かったです。上手いアマオケを聴くと自分も演奏したくなりますね)。