スティーヴ・エリクソン『彷徨う日々』
スティーヴ・エリクソンの幻視力に魅せられて、もう何冊も彼の作品を読んでいるが、まさか処女作から彼が同じテーマ、同じ手法で物語を綴っているとは思わなかった――エリクソンの作品には、どれも複雑に線が入り組んだ対位法のような構造あり、そしてそこで描かれるのは「充実した生を不可能とされた何らかの欠陥/欠損を持つ男」と「超自然的な能力を持つ、美しい女」との強烈な愛である。既にそのようなスタイルは1985年の『彷徨う日々』で完成されており、その後『黒い時計の旅』においてより洗練された形でまとめられ、『Xのアーチ』ではもはや捉えることのできない結晶となっているように思われる。エリクソンは虚構の現実を見出す作家というだけではなく、「変奏」の作家でもあるのだ。
『彷徨う日々』では、記憶に欠損を持った男ミシェルと、美しく充足した男であるジェイソン、それからローレンという女の三角関係が「一つの物語」として描かれている。ジェイソンとローレンは結婚しているのだが、自らの完璧な美しさを知っているジェイソンは、ローレンを蔑ろにしており、彼女は傷つけられている。そこに現れるミシェルとローレンが傷ついたもの同士で惹かれあうのは当然なのだが、興味深いのは、完璧な美しさに陰りが生じ。またローレンの心を失ってしまった後のジェイソンの心理描写だった。自転車競技の選手としてのピークも過ぎてしまい、妻の心も失った彼には、もはや何も残されてはいない。ここでジェイソンと、ローレン-ミシェルの関係は逆転してしまう。今度はジェイソンが「彷徨う」人間となるのだ。
小説中で描かれる「もう一つの物語」では、映画がメインとなる(ちなみにここで登場する、未完の大作『マラーの死』が二つの物語をリンクさせるキーとなっている)。ここでの主人公である若い映画監督、アドルフは永遠に彷徨い続ける人として描かれているように思う。赤ん坊の頃に、双子の兄弟と生き別れ、高級な娼館で育てられた彼はずっと失ったものを取り戻せないでいる。彼のライフワークとなる映画も公開されることなく、生涯を失望とともに生きてきた、アドルフが老人として登場するところは突き刺さるほど悲しく思った。
登場人物たちの「出会い」と呼応するように、天変地異や終末的な暴動(世界中で停電が頻発し、ロサンジェルスでは砂嵐と竜巻が起こり、寒波が猛威を奮うパリでは市民が焚き木を求めて暴動し、ヴェネチアでは運河を流れる水が枯れてしまう)が起こる。その不吉さもまたエリクソンのトレードマークのように思う。エリクソンのように類稀な想像力によって自らの世界を築いた作家には、ガルシア=マルケスやピンチョンを挙げることができるだろう。ただ、彼らのようなエリクソンに先行する作家たちと違って、エリクソンの小説は「虚構」という楽観性を持っていない。
「トマス・ジェファーソンの愛人となった黒人奴隷」、「9と10の間にあるまだ発見されていない数字を証明しようとする数学者」、「ヒトラーがもし生きていたら」……エリクソンが幻視する世界から、取り上げてリストアップしてみると、こんな笑い飛ばしたくなるようなとんでもない要素がひっかかってくる。しかし、実際に物語のなかに登場するそれらはとても深刻な表情をしている。この深刻な表情が、作家の重さに繋がっていて、独特な求心力を生んでいる気がする。