sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

なにかとはなにか

 「現代人は昔の人が持っていた大切な何かを忘れてしまっているのかもしれない」、「田舎の生活には都会のそれとは違った充実した何かがある」、「俺たちはあの頃持っていた何かをどこかで無くしてきてしまったんだ……」――このような文章を、多くはその文章のしめくくりにおいて、我々は日常的に読んでいる、と思う。このようなしめくくりが読み手に対してどのような感想を与えるかには、3つのものがある。1つはそのしめくくりを受け入れる反応である。読み手はその結末部分に納得する。これを文章への承認と呼んでも良いだろう。おそらく、多くの読み手が「何か」によって文章を結論付ける文章に対して、承認を与えている。だから、このような書き方は色々なところで目にするようになったのだろう。
 2つ目の反応は承認の反対に位置した拒絶である。
 3つ目の反応は承認と拒絶のような単純な反対項でも、その中間でもない、微妙な反応である。その2つ目の反応を言葉に置き換えるとするならば「ここで言われている『何か』とは何であるのか?」というものになろう。前述したように、これは拒絶――「現代人は大切な何かを忘れてなどいない!」――とも承認 ――「そうだ、確かに現代人は大切な何かを忘れている!」――とも異なったものである。受け入れるのでもなく、反対するわけでもない、このような反応を困惑と呼んでも良いかもしれない。
 私もまた困惑する側の人間である。それまでうなづきつつ、読み進めていた文章が「何か」で終わるのを見る度に、激しい脱力感に襲われてしまう。それと同時に「『一種の』や『ある種の』といった言葉を使いたがる人がいるが、それは何も言っていないのと一緒だ」というニクラス・ルーマンの言葉を思い出す(ちなみにこれは正確な引用ではない。大意として)。ルーマンの言葉を噛み砕けば、「一種の○○」、「ある種の○○」というぼやけた表現は具体的に何を指し示しているのか、そのような伝わらない文章は何か言っているようで何も言っていないのだ、という批判になるだろう。あるいは、そこで行われている「他者を考慮していないコミュニケーションの試み」に批判の矛先が向かっている。
 しかし、正直に言ってしまえば私も、「一種の」とか「ある種の」とか「何か」といった表現はとても便利な言葉である、と思っている――何故、何かは便利なのか。その理由はルーマンの批判の論理と間逆なものとなるだろう。「何か」は実際には何も言っていないのにも関わらず、何かを言っている気がしてしまうからである。そして、それは実際には何も言っていないにも関わらず、「何か」は伝わってしまう(承認されてしまう)のだ。「現代人は……」という結論部分に出会った読み手は「たしかに、江戸時代の長屋暮らしには温かみとか助け合いの精神とかがあったよねー」などと、それまでの文脈から書き手が伝えようとする意味を想像することができる。また、拒絶の場合でも承認の場合とも同じ伝わり方をしている――「いや、現代人は温かみなど失っていない!」という受け入れがたいものが伝わっているからこそ可能になるのだ。
 困惑するものが抱く「『何か』とは何か?」という書き手に向けられた問いは、「私にはその『何か』が伝わらなかった」という疎外感から生まれているようにも思う。困惑とは「何か」かによるコミュニケーションが徹底的に失敗した事例なのである*1。しかし、このような失敗は書き手にとってさほど危険なものではないだろう。書き手にとって本当に危険なのは、「想定されていない他者によって承認されること」なのだろう。「江戸時代って良いよね!ムカムカしてたらその辺にいる商人とか日本刀で惨殺してもOKなんだもんね!」とか「田舎って本当に充実してるよなー。近所で子どもをブッ殺したりする主婦が住んでるんだぜ!近所に殺人犯がいるなんて最高だよ!!」――極端な喩えだが、「何か」はこのように伝わり得るものなのだ。
 このような想定していなかった他者からの承認を受けたとき、書き手は困惑してしまうだろう。しかし、それはそのように「何か」を受け取った他者が悪いのではなく、そのような他者を考慮していなかった書き手に責任があるように思う――正確な言葉でもって文章を綴ろうと考える書き手であっても、そのような困惑に出会う可能性に常に付きまとわれている(あらゆる理解は誤解である。あらゆるコミュニケーションは自己言及である、といった過剰に有名な言葉を思い出されたい)。だからこそ、正確な言葉はより必要とされるのだろう――正確な言葉は予め、そのようなリスクを軽減する機能を持っているように思われる。逆に「何か」とはリスク増やすものとして考えられるだろう。自ら増やしたリスクによって、困惑する書き手には読み手を非難する権限はないのかもしれない。
 ――と以上のようなことを会社で考えていたのだが、「『何か』でしか伝えられないものがあるのでは?そもそも『何か』ってホントになんなの?」と帰り道で考えたので、このエントリ続くかも。

*1:しかし、突き詰めればこれも「『何か』が伝わらなかった」という意味を伝達している